反日常系

日常派

病院に行った日の日記

 病院の待合室で、あまりにも小さい呼び出しの声に苛立ちながら、さしてすることもないためにこの文章を書いている。病人と老人は声が大きく、老人が声を大きくしているのはお互いの耳が遠いからだと直ぐに理解出来るものの、病人(のほとんど)は何故声だけで病人だと第六感に訴えかけるのだろうか。

 病院に行くまでの道には掠れた看板の数々があり、看板につられて店内の様子を伺うと、カーテンや机すらない伽藍とした空間となっていて、その店が既に閉まっていることを察する。「珈」という字が看板に恨みのように残っている──他の文字は殆ど風や雨に削り取られてしまったのだろう。読めなくなっている──ことから想像するに、生前は喫茶店だったのだろう。つわものどもが夢の跡と、正しく物事を言い表しているかも査定せずに言葉が連想された。

 連想は常にそれが正しい正しくないを問わずに浮かび上がる。深層心理という名の、言い当てられるか、否定しても言い当てたとされるくだらないものの為に四、五十分も待合室で老人に囲まれている。この経験が寓話的に何かを示唆する日が来るだろうと、またしても適当な連想を続ける。ロールシャッハテストの結果を聞きに来たのだが、僕の西洋医学への信仰は真面目な信徒のように常に盲信という訳には行かず、メンタルの調子やまたはその時折の機嫌などによって簡単に上下してしまう。

 今の僕にとって、深層心理というものは、目的地へ行くのに踏み出した足は右足か左足かというような些事であるように感じられてしまう。どこへ行くかとか、バスか電車かといった問いの方が実践的であろう。原理や原始などは全く実践的ではないのである。例えば、落ち込みやすいという思考の癖を知らされたからと言って、それはただの非情な真理(胡散臭い響きだが、そもそもこれは胡散臭いのである)であり、簡単に絶望に堕とす手段のようにしか思えない。

 医者に呼ばれ、診察室に向かう。この医者に対して思うのは、濃い腕の毛を手巻き寿司のように腕時計で包んでいるなという程度で、好感も嫌悪も持つことを許されぬような、無味無臭の人間であり、この人物が誰かと親しくしているという想像が困難な程、個人として人間を捉えることが出来ない。医者の学校があるなら(あるのだが、その内容を好き勝手に空想することが許されるのなら)、診察1Aの中の例文でしかないような空虚な会話をした。さして変わっていないことを好転と勝手に捉えられる。特筆するべきこともなく、夜中起きると数回の通院に渡って訴えているのに薬の量は死人の心電図のような水平線を辿る。

 これからカウンセリングを受ける。あまりの馬鹿馬鹿しさに憤慨することを一つの楽しみとして期待しているが、馬鹿馬鹿しさにもしらける馬鹿馬鹿しさがある。それはつまらないコメディにも似て、僕を冷笑家に変えてしまう。

 

追伸

 カウンセリングが終わった。様々な客観的観測を述べられて、凡そそれは当たっていると思ったが、治療の方針に関しては多分に希望的観測が入っていると言わずにはいられなかった。正誤で言うと正の様々な客観的観測は僕が鏡の概念を知らない動物だったら驚いていただろうとも思う。僕は鏡の概念を知っているが故に、客観視ができる故に、紙に書かれた検査結果にデジャヴの様なものを感じ、醒めざるを得なかった。