反日常系

日常派

日記

 人が死に、呪っていない人から順に死んでいくことを思うと、一番呪っている自分自身が爺とも婆ともつかない老人になって独りで床の染みと化す姿が脳裏に映る。それも上手くいけばと言った感じで、日々をようやっとやり過ごしている。徐々に高くなるハードルに脚が引っかかり、陸上競技場のトラックに横たわるだろう。その時には既に順位は決まりきっていて、誰も心配や関心を寄せることはないだろう。

 人が死ぬ度に人が死んだと宣い、それなりの好奇心や興味を、それと悟られないように気をつける。時には一回も成功したことの無い自殺専門家として、それなりの喚起をする。もう、自分が自殺を完遂するとはどうしても思えないが、いつか完遂することを夢見る。悲しくないことはほとんどない。悲しくないふりばかりして、口から下卑た言葉がついて出る。人に傷つけられたとは言えない。人は傷つけられたと思いながら傷つけながら、息も絶え絶えに日常を遂行しているのだし、無遠慮に何かを要することは同じように何かを要されるというナイフをちくりとやられることだと思うと、何も言うことが出来ない。ただ、自分の要求や欲求が言葉にせずとも伝わればいいと、神や仏を想う姿勢で願うが、その姿勢を取るということは叶わないと悟ることと表裏一体であることをすでに察している。少しでも自分が魅力的だったら、ユーモアがあったら、友好的に見えたらと思わずにはいられない。僕は水族館に泳ぐでもなく漂っている深海魚みたいに、珍奇なだけのとてもつまらない人間だから、人をガラス越しに釘付けにすることが出来ない。全て僕が悪い。

 何故自分が人に愛されないかを考える。何故自分が人に愛されないかを語っているから、と、トートロジーじみた答えに行き当たった。愛されないと喚くことはそれだけで人に要求しているのであって、無欲を気取った先述の仙人ぶった文章に二重線と米印で赤ペンが入れられる。

 リストカットなんかしたって、僕の無数の傷跡に塗れた手首からは縫合糸の有無しか差異が見受けられないのだし、誰にも気付かれない慟哭になんの意味があるのだ。貝印をゴミ箱に捨てた。僕は言葉を弄するのに自分の感情のある程度を言葉にするのはとても気が引けて、他人の気を惹く為に癇癪のように行動をしたり、しなかったりする。この文章だって気恥しさと誰かにぶん殴られるだろうという自意識過剰をもって書いている。誰かに要され、それを簡単に満たすことが出来、その見返りに何かを要したい。自分の感情が誰にでもわかるような、わかりやすい人間だったなら、僕はどんなに友好的な人間だと思われていただろう。どうして僕は本意をわざわざ本意に見えるよう、見えることを祈ってそう装っているのだろう。本当に笑っている時、笑っているように見えるよう目を細めるが、そのせいで僕の顔は醜く変形し、人に嫌悪される。そういうことが続くのだろう。