反日常系

日常派

糞をした日の日記

 桜が完全に散り、排水口を流れるゴミも桜の花弁の割合が徐々に減る。外来種が流るる水に耐えるように逆らい、その実上るでも下るでもなくただ体をくねらせながら一定を保っている。これは日常の暗喩のようにも思え、なんでも暗喩と結びつける一種の狂気じみた暇人さに我ながら苦笑する。何か風流なことを言おうだとか、的を射たことを言おうだとかする時、人々は文章技巧に隠された狂気に触れざるをえない。擬人法だとかトートロジーだとかは、それが卵が先か鶏が先か的な問題を孕んでいるが、少なくとも狂気だ。人は人生や哲学を語りたがるが、それらは言葉より易しいか言葉より難しいので、どちらにせよ語るのはとても難しい。語りえないことについては人は沈黙せざるをえない。(こんな当たり前のことに人類が気づくまでに千九百年もかかったとは驚きだが、誰しもが語りたがるというのは人を見ればすぐにわかる。そして僕も……。)

 ならば語りえることについて、饒舌に語ろう。語りえることとは、当たり前のことである。僕は日常を日常と捉えることを(発狂するのではないかとの恐れを含み)遠ざけ、そのくせに飽き飽きしているのだが、技巧の上達には飽和が欠かせないものだ。

 

 暖房をつける回数が減り、暖房を必要としない季節が到来しているのを、窓に射し込む光のぎらつきによって知る。知っているのに毎回初めて見たような呆けた顔をして瞼を擦る。それなのに虚弱さ故か暖房をつけては消す。暖房の生温い送風は生活排水にも似て、体に悪い人工の臭いと共に流れを成す。とっちらかった部屋では扇風機と炬燵が共存しており、それだけを見ては季節を断定できまい。もう五月だ、と、年に十二回やる新鮮な驚きをまた文章に書き残してしまう。いい加減、このブログは新聞か週刊誌かと、あまりの無為に腹を抱える、もしくは絶望しそうになる。実のところ、それらは僕の目からしたらほとんど同じに思えるほど似ていて、区別がつかない。顔をくしゃくしゃにしてもそれが泣いているのか笑っているのか、涙の有無でさえ泣き笑いも含めれば断定は出来ない。

 人々が四季なんて言葉を作ったのは、自分がある程度時間に鈍感であっても、木々や気温を察せばある程度の時間の流れを推察出来るようにだろう。四月と五月の間に鈍感な人間の察せる何かはほとんどなく、鋭敏な人間の時間感覚に憧れを持つ。何かを書くためには何かを感じなければならないし、徐々にそのための能力が摩耗しているのを感じる。山椒魚になぞらえて、何か一つ含蓄のある文章を排泄しようと思ったがやめておく。日常とは無為である。無為に対抗するために文章なんかを書いたりするのだ。対抗するために含みを持つべきか、元来の日常に沿うべきか、答えはなく、ただ人はその筆先の赴くまま、浮気性にどちらかを選択する。

 

 糞をする。何故ニュートンが毎日していたであろう排便で重力を発見しなかったのかと、股間丸出しで首を傾げてしまうほど綺麗に糞はトイレに吸い込まれていく。水音。排便した時にはトイレの臭いに慣れきっている為か、さほど臭くはない。その瞬間は無臭とも信じきれるほどだ。トイレットペーパーを肛門に擦り付け、その色を茶色に変える。繰り返すごとにその色が徐々に薄れていく。そして白色がそのまま残ったことを確認すると肛門を開閉し、様々な角度から同じことに再度取り組む。何度かして、白色のトイレットペーパーがそのまま残る。茶色のそれらの上に捨てる。立ち上がってズボンを履く。レバーを回す。水が獣の咆哮を思わせる音を予感させ、そしてそれが眼前に現れる。トイレットペーパーとそれらによって見えなくなった糞は、四方から現れた水に為す術なく流され、一瞬だけ抵抗のように動かなくなったかと思うと、次の瞬間には姿を消している。

 日常なんて、そんなものである。含蓄はないが、含羞もない。後者の方がこの文章には必要なようである。