反日常系

日常派

文章が書きたかった

 文章を書きたいので文章を書く。ただそれだけで文章が書けたらそれが一番いいのだが、文章を書くには対象物が必要となる。特にブログなどという不特定多数に自分の生活をお題にして書くものと相場が決まってるものは特にその性質が強い。文章とは現実なり、論理なり、空想なり、記憶なり、何かを思い浮かべながら書く。全く何も思い浮かべずに『文』を構成することは普通の手段を用いていては無理だ。ただ画面やキーボードをやたらめったら叩いても、それは文ではない。そういう偶発的な手法で文を作ろうとするならカットアップ手法という物がある。なのでカットアップでブログを書こうと思ったが、それは作文ではなく作業であることに気づいてやめた。しめたものだが、もう三百文字も費やすことが出来た。

 文章を書きたいのに書けないというのは、尿閉塞になった時の感覚にとてもよく似ている(セックスしたいのに何にも興奮しない、などといった手垢のついた例えは使わない。それよりこちらのほうが適しているからだ)。排泄には快楽が伴う。だが、排尿を快楽のためにする人はいないだろう。どちらかといえば不快のために排泄をする。文章を書きたいのに書けないというのは、「もう自分から表出するものは何もないのかもしれない」という気持ちと一セットになっている。日々、もちろん我々は何かを感じたり思ったりして過ごしている(これが尿や便だ)。だが、それが何にもならないのではないかと思うと恐ろしくなってくる。俺は(我々とは言えない。全員がそうだという自信がないからだ)書くことによって、日常の意識の流れに意味を持たせようとしているのだ。ただ忘れるだけの感情が文章にすらならずに記憶の彼方で積もり積もってしまう。それがいつ爆発するのかと考えると恐ろしく、少しでも形にしてこんな場所に子猫を捨てるみたいに置いておく。少しでも拾われるように文章の体裁を整えて。

 書かないことへの恐怖が俺の文章の原動力だ。だからここ数週間気が気じゃなかった。もしかしたらもう枯渇してしまったのではないか? もう何かを素晴らしいと思っても、胸の中で残った感情や影響は胸の中で暴れ続けるだけで、そしてどこにもたどり着くことなく腹に下がり朽ち果てるのか?

 俺は素晴らしいものを見たり体験したりした時の、素晴らしいと言いたい気持ちを、無駄にしないように言葉を紡ぐ。そしてその素晴らしさが読者に伝わるように言葉の切っ先を研いでいる。