反日常系

日常派

何もない日

 美味くもない煙草を喫み、美味くもない珈琲で胃袋に蓋をする。一時間間隔でその行為を繰り返していると、意味もなく死にたいと思える。来た、ようやくだと思いながら画面上のキーボードをフリックし始める。幸せは人から語彙を奪っていくけれど、幸せではないことは虚無ですら我々に言葉を与える。それはメジャースケールよりブルーノートスケールのほうが三音多く使えるのととてもよく似ている。日々の暮らしをブルースと言う勇気はないが、現世にブルースではない暮らしが存在するのだろうかという疑問はある。

 息を吸えば強く燃焼する煙草のそれのように、息を吸うことがタナトスを強く燃やしているのではないかと思う。息を吸うことは生きることと同義で、生きることは死ねることと同義だ。息を止めてみようかと、思うのが先か実行したのが先か。どちらにせよ息を止めて、数十秒後に息を吐き出した。そしてまた一時間が経っている。美味くもないタバコを喫み、快楽のために炭酸のジュースを飲む。結局のところ砂糖の奴隷である僕の舌は簡単に喜ぶ。

 外に置いてある洗濯機の洗濯槽の中に、元は雪であっただろう水がちゃぷちゃぷと残っている。全ての雪が解けてしまうことに悲しみなり諸行無常なりを感じる風流な脳味噌があれば、この文章も感傷にまみれて文字数も増えるだろうがそんなことに気を遣ってはられない。気を遣ってはられないくせに気を遣うべく他の感傷は見当たらず、ただただ無をやり過ごしている。洗濯機に脱水を命じ、小さいちゃぷちゃぷと大きなゴトゴトを聞く。雪解け水は排水溝へと流れ、後には何も残らない。そしてこれにも、さりとて特筆するような感傷はない。

 価値のない感傷を持って挑めば、世界は特筆に足るようなことばかりなのだろう。以前は僕もそうだったし、これから先そうなっていく可能性も多分に存在するが、今はそうではない。僕は今以外のことは全て憶測でしかものを言えない。僕以外は? おそらく未来に対しては憶測の物差しを持っているが、過去に対しては確信で喋っている。経験したものは確かだと思っている。僕は記憶力の欠如か、または連続性の欠如で、過去に対しても薄ぼんやりした視線を持っている。乱視かつ飛蚊症のその眼は、僕から自信を奪い取り、おそらくと言った接頭語を与えた。虚無を持ってしてもこんな文章を書くのでやっとだ。価値のない感傷は簡単に他人の興味を惹くだろうが、そのやり口すらこの文章にはない。こんなことを書いてるうちにまた一時間だ。美味くもない煙草を喫むだろう。