反日常系

日常派

日記

 クーラーからは埃や黴など体に良くない物質を延々顔に吹き付けられているのだろうと思い、夏の暑さがもう会うことはないと予期させる人のようにしおらしく、最後の印象だけは良いものにしようと顔を歪めて優しくなったのを境に、今更と思いながらも扇風機のスイッチを押した。毎度毎度ブログ記事に出てくる煙草と珈琲をのみ、毎度毎度ブログ記事にする。煙草のせいか珈琲のせいか、扇風機が開けっつらの腹に風を当ててくるせいか、そんなに食った覚えもないのだが糞が出る。こんなことばかり書いていては何にもならないということは書く前からわかり、糞みたいな内容をそれらしい言葉でコーティングしようとする気持ちすら湧き上がることはない。八月になったといつもの調子で言ったかと思えば八月にはブログを更新すらしておらず、かといってそれらしい季節に対する情感も特にない。

 夏に対する期待や情感をあと二ヶ月もなく二十七になる人間が持っていたら、それは過敏症である。人は喜びや悲しみは言うまでもなく、言葉にして表現出来ないような感情まで一緒くたにして既視感の箱に入れていくのだし、そうして簡単なことで針が振り切れないようにするのが成長なり加齢なり、まあ、それは経年変化というのが相応しい何かしらなのだ。

 夏の暑さは生命に対する危機感故に、見せる景色にぼんやりとした効果を与え、そのクラクラとした感覚を感傷に変えさせる。僕らが感傷のように思っているのは、単に身体の悲鳴だし、サウナだって身体の悲鳴を快楽と勘違いしている(か、単にマゾヒストかのどっちか)だけのように思える。ドラッグだって結局は身体的な経験でしょう。そういった唯物的な考えで感傷や感情の「感」の字を理解しようと思っているのだが、これが医学的に正しいのか、誤っているのかが気にかかる。神学的には間違っているだろうな。

 

 コンビニに煙草を買いに行く。店員の態度は時給九百円かそこら程度に相応しい態度だ。レジに向かえばレジから逃げ出す店員と、レジの小銭を入れたり出したりする作業を忙しそうにして無視する店員とで、仕事の押し付け合いが発生している。全ての生活の営みは、それ自体が当たり前に脅かされ続けているということを前提にすればなんだって愛おしい。これは先の大震災からのムードであり、それから十数年も経っているのでいい加減型落ちの思想なのだが、人は青年期のムードを簡単には捨てられない。

 カートン買いの無料ライターを投げられ、どうしてこうも嫌な思いをしてライター一つを貰ってへいこらしているのだろうねと思う。貰えなかった時は悲しいくせに、使い切ることもなく机の上に溜まっていくカートン買いの無料ライターをジェンガのように積み上げては、崩れてどれを使ったのかを忘れた。