反日常系

日常派

幸福は暖かい煙

 馬鹿な中学生のように煙草の話ばかりをしている。僕のような人間にとっては、背伸びをする・やめるというのが唯一の自発的な話題であるのだが、齢も二十後半となってくると、「何が背伸びだ。踵を浮かせるよりも先にその猫背を直せ」という話になる。そうした返しを想像する度に、僕は成長に対する反感と共に苦味にも似た居心地の悪さを隠すために舌を出す。乾ききった唇を毟ると煙草のフィルター部分が唇に引っ付いて吸い心地が悪くなる。癖で唇を毟ってしまうので、必然唇を舐めるのも癖になる。歯医者に行くと歯のことよりも先に唇にワセリンを塗るようにと忠告される。

 味については全くもって白痴なので、何の煙草を吸ってもどうやら味がするらしいといった調子で、値段と喉に当たる煙と体調不良でしか煙草を判別できない。痴れ者という言葉があるが、痴れ者はそういった不感症から来ているのか、感じすぎるために来ているのか知らん。僕には後者のように思えてならない。痴れるほど、何かに鋭敏になってみたいと羨望の目で見てばかりいる。

 味がする、と物陰に隠れた何かの影を察するように思う煙草はまだウィンストンかオプションパープルしかない。僕はそれが美味しいのかすら判断できない。紅白帽のゴムをしゃぶる子供と一体何が違うのかと問われないことを祈る。依存性の有無によってしか区別できないが、それは依存性のある紅白帽のゴムを知らないだけかもしれない。

 煙草は様々な物事に例えられ、貶されたり褒められたりする。そのために必要以上に嫌われたり愛されたりしている煙草だが、個人的な煙草への向き合い方に、キャッチコピーじみた(つまりは現実と乖離しているのにそうなのかもしれないという匂いだけ嗅がせる)言葉を使って釈明をするなら、恋愛と同じだ。「なんでこんなものを愛しているんだろう」と思いながら離れられないことが醍醐味なのである。美味いと思いながら吸う煙草が楽しいのか、僕にはわからない。感覚を理由にできるなら感覚を理由に煙草をやめることも出来るわけで、「なんでこんなものを」と思いながら我々は煙草に火をつける。そして非喫煙者たちに「そんなものとは別れた方がいい」と知ったような口を利かれる。でも、だって……(そして結局別れられない)。そこには痴れ者と呼べるような淫乱さはなく、誠実で自堕落な恋人としてそこに存在する。味を理由にするなら、煙草など吸わずガムでも食っていれば良いのである。こうして書いていて思ったが、この文章は依存という言葉を回りくどく説明しているだけではないか? それなら、依存するから楽しいとしか言い様がないのだが、それも簡潔な真実である。我々は自由だけでは満足せず、必ず帰らざるをえない地点を欲するのが常で、帰るために旅をする。家がなければ旅もまたない。わかりやすい家とはデジャヴにも似た満足だ。白痴にとって、満足はチープな形を取れるならそうするに越したことはない。