反日常系

日常派

バスルームで手首を切る1の方法

 リストカットをした。思ったより痛いと思ったより痛くないの反復で、たまに神経なのだろうか、じんじんする感覚があって、「やべ」と思って手首から剃刀を離した。

 初めはカッターで切り始めたのだが、リストカットの熟練者である僕の手首はかさかさして上手く皮膚を突き破らない。皮膚を突き破り、脂肪のぬるぬるとした血の海をスケートのように突き進みたかったというのに。今、包帯に巻かれた左手では、赤色がガーゼと包帯の上に赤色の顔を出そうと努力している。文章を書くために親指をフリックしているが、その度に傷が呻いて痛いのだ。ただ、それに安心がある。安心があるというクリシェではこの気持ちはとてもじゃないが説明できない。キリスト教とは奴隷道徳だが、奴隷になることで許されたような気分になるような。士農工商以下の穢多非人に自らなったような。非人でないと思われることは人からの解放という面があるということは否定できないだろう。猿だろうか、猫だろうか。野生に帰ったような気持ちになって、服など着る必要はないのだというような開放感。それを求めているのかもしれない。

 どのように手首に傷をつけたか。カッターで五回くらい薄皮を切ったが、それらは雫にすらならず、薄く切れた皮の隙間からただ赤いペンでの点描で線を描いた。そのまま、包帯がないのではのちのち不便だろうと、ドラッグストアに行き、包帯等応急処置道具と貝印の剃刀を買った。こんなんに二千円もすることを思うと、回転寿司でも行った方がマシだと思うけれど、回転寿司では僕の憂鬱は流れてくれない。回転寿司では寿司とふざけた店内BGMしか流れない。血を流さなければならない、そう確信していた。盲信に近いかもしれない。僕は現実に手酷くやっつけられている。そして誰かにそれを見つけてほしかった。誰かにそれを信じさせるには、手首を切るしかないだろうと思っている。首も切ったこともあるけれど、救急車を呼ぶことを考えると申し訳なくてやめた。

 家に帰り、手洗いとうがいをする(疫病で死ぬのはごめんだ。僕はそもそも死にたくなんかない)。そのままゴミ箱を血の受け皿にして手首をサクサクとやり始めた。薄くないリストカットは勢いでも力でもない。コツだ。まず最初に手を置き、その次に垂直に剃刀の刃を置く。切りたい向きと平行に刃を押し付ける。そして少し押し付けながら右手(剃刀を持っている方)を引き、左手の輪郭が湾曲している、横に出たら後は剃刀の先で切り開けば良い。運が良ければ血で滑り、力も要さずに裂かれる。この悪用しかない情報が悪用されないことを祈る。この記事を読んでいかなる行動に移られてもこちらは責任を取りません。

 簡単なリストカットの方法なんか書かなきゃよかった。多くの人にとっては浅いも深いもリストカットなのだし、リストカットしただけで狂人の仲間入りなのだろうが、僕は困難なことをするほど大変なんだということでしか人に救援信号を発することが出来ない。簡単なんだ。深く切るのは、少しコツを知ってるだけ、恐怖心がほんの少しないだけ。誰かが僕を心配してくれますように。誰かが僕に優しくしてくれますように。