反日常系

日常派

戦争と私文章

 戦争が始まった。はてなブログAmeba、noteに戦争にかこつけた私文章が跋扈することを予想すると吐き気にも似た愉快な気分になるが、そもそも日本とは文学の誤読から私をいかに描写するかの文化だ。何が起きようと変容した私を絢爛な文章で綴る他ない。シェルショックに陥る兵士を思うと戦争反対と軽薄に声に出して言わざるを得ない。爆撃で爆風を感じる前に吹き飛ばされる頭蓋骨を思うと南無三と思わざるを得ない。得ないがその手はBGMの選択に忙しい。スマートフォンを持つのに精一杯で両手を合わす暇すらもない。

 ツイッターではこの動画はフェイク動画だから気をつけるようにとフェイク動画をまとめたページがおすすめされてきた。その動画は他の戦争だったりビデオゲームの画面だったりする。ビデオゲームが戦争を模倣したのではない。戦争がビデオゲーム化したのだ。遊びと戦争、どちらが先かと卵が先か鶏が先かの話をするつもりはない。遊びを覚えて猿は人間になったのだし、人間は猿の頃からずっと戦争をしてきている。歴史という概念から集団的対立は戦争と呼ばれるようになったが、遊びがビデオゲームの形をとるようになるのはテクノロジーの発達まで待たなければならない。ウラジーミル・プーチンジョー・バイデンビデオゲームに熱中していたかと言われると、熱中していないだろうとは思うが、テクノロジーの発達の恩恵を受けていないとは誰一人として言う者はいないだろう。テクノロジーは全てをビデオゲーム化したのだ。会話でさえビデオゲーム化の一途を辿っている二〇二〇年代、何がビデオゲームでないのか、探す方が困難とも言える。そもそもフェイク動画を本物だと思うことの何が悪い? それを元にロシアを口撃すれば確かに悪いことだろうが、どうせそんなものを見たがるのは刺激で脳を焼ききることを目的とした奴らしかいないだろう。涙を流すために見ている? 誰かの追悼をするために見ている? 反論を頭の中で湧かしてみたが、そのような人らには「君の脳は焼ききれているよ。もう動画は必要ない」としか言えない。知りたいという欲求に突き動かされるのは盗撮魔だけで十分である。全てが片手、いや親指一本で知ることが出来るこの世では知ることの幸せより知らないことの幸せの方が質が高い。

 全てを知って戦争へと反対する、不幸せだが誠実な人もいるだろう。しかし、来たるべく戦争に向けて一歩でも動かそうとする時に必要なのは動画ではない。行動だ。人の惨い死に方に詳しくなってどうする。不幸せへの警告が効果を成すなら今頃世界に核兵器はない。僕はただ関係ない国の一人の人間として、目を閉じて耳を塞ぐ。死ぬ時は爆風も知らず頭蓋が飛ばされることを祈る。