反日常系

日常派

茶色いキャンバス

 ZOOM飲み会wと「w」までつけて馬鹿にしたものの、ネットを介してでも、人と話していると酒が進む。酒などを飲んで非日常へと投身するものの、うまくいかずにゲロばかり吐いている。喉に胃液がこびりついてひりひりする。ゲップをすれば胃液の味がして、煙草を吸えば酔いが脳みそを誑かすので何も出来ない。何も出来ない。何もしたくないので、それは望むところなのだが、何もしたくないと何も出来ないでは大きな違いがある。何も出来ないわけでなければ気晴らしにギターを持ち、Cadd9を弾いたところで満足し、元の場所に戻すというようなことも出来るのだが、吐きそうな体ではそうはいかない。吐かないように身体を酔いの回らない体勢に変え、それも無理だと悟れば寝返りのような緩慢さでゆっくり体勢を変えるだけだ。

 死にたい。死にたいのかもしれない。何もしたくない。生きることには疑いようなく非協力的だ。なのに、息は止まらない。胸は鼓動を止めることはなく、乳房は上下運動して心臓がこの下にあらんと言うことを誇示している。なにもしたくない。文章しか書きたくない。なににつけても才能の有無を気にしてしまう。才能がないであろう音楽はやる気にならない。体育など以ての外だ。道徳? 少なくとも社会的倫理についての才能はないようだ。死にたい。文章以外の才能がないこの世から脱却したい。才能があるように思える文章も、それだけで飯を食うには及ばない。自殺してしまいたい。才能に溢れたいなどといった下卑た考えではない。才能の有無を気にしてしまうこの脳みそとおさらばしたい。楽しいことを楽しいという理由で続けられる無邪気さが欲しい。

 風が吹いて死ぬことを決意することがないように、風が吹こうと何もする気は起きない。嫌になってくる。風が吹いて死のうと思い、雲間から太陽が覗いて生きようと思いたい。何にせよ、軽薄に生きたいのだ。なにものにも感化されたい。そうすればもっと幸せだったように思える。斜に構える性質が、全てをつまらなくしてしまった。風が吹いて死のうと思うことは、夢で見た事を神の啓示だと思うことや桜が散るのを楽しく見ていることと同じだ。何にせよ、それが自分にとって良くない結果をもたらそうと、感化されることは不感症の人生よりは随分マシだ。感化されてなにか不幸な結末に陥ろうと、不幸せはゼロよりは随分マシだ。自伝の厚さは不幸の数だ。ここ数年は何もないキャンバスで、それも日に焼けたキャンバスである。新品ではない。汚い色でも青色でも、なにか塗り重ねたい。それが人としての厚みになるのだろうと、何もないまま朽ち果てることを予期しながら、言っている。茶色から小麦色の染みを携えたまま、言っている。