反日常系

日常派

【小説】犬吠埼泥棒日記


 自殺の名所が散歩コースの一つだ。無職なんて散歩くらいしかやることがない。今まで、四回ほど自殺者が自殺者志願者である頃に会ったことがある。彼らは皆一様に、僕を胡散臭そうに思ってそうな顔を向け、「宗教勧誘か? それとも自殺防止のボランティアか?」といった顔をする。彼らにとって幸か不幸か、僕はどちらでもない。死にたい人間が死ぬことにはそれなりの決意がいるだろうし、それを正論や道徳や感情で否定するのは、あまりにも人を蔑ろにしすぎていると思う。僕がもしその崖から飛び降りる人を助けたとして、死にたい人は生きても死にたいだけだと思う。そんなことを思うのは、僕も軽い鬱だからだ。散歩とか言いながら、自殺の名所に吸い寄せられてるだけなのかもしれない。彼らの考えに興味がある、というのも不躾かもしれない。ただ、人と喋ることがない生活をしているから、人と喋りたいだけかもしれない。多くの場合、人は怖いものだ。けれど、もう死ぬ人はなぜか怖くなかった。人は失うものがある時だとか、恐れる時に凶暴になる。もう死ぬ人は何も恐れない。だから自殺を止めようとしないのかもしれない。生きようと思う人、それは僕にとって怖いからだ。僕と喋って生きたいなんて思われても困る。なるべく彼らの自殺の決意を揺るがせないように喋る。  今日は崖を見下ろしている、白いワンピースの女性が立っていた。彼女は長い黒髪もあいまって、すでに幽霊かのようだった。腕時計を見る。もう終電は過ぎている。おそらくこっち行きの最終電車で来たのだろう。 「こんばんは」  僕が話しかけると、驚いたように振り向いた。彼女はいずれ消えゆくものの大抵がそうであるように、美しかった。なぜか他の自殺者よりも、この少し後に死ぬだろうなということを意識させた。自殺者は僕より年上が多い。彼女も三十歳前後だろう。 「海でも見てたんですか?」 「…………えぇ」 「ちょっと、お話ししませんか? 怪しい者ではないですよ。怪しい者は誰だってそう言いますけど」  彼女は少し笑った。 「コンビニ行って、酒でも買ってきますよ」 「あ、私も行きます」  田舎だからコンビニは結構歩かないと辿り着けない。二人とも初対面なのに、なぜかよく話せた。 「本当は自殺しにきたんでしょう?」  彼女は驚いた顔をする。そのあと肯定するか逡巡した様子を見せた。 「安心してください。止めませんよ。宗教勧誘もしないし、自殺者を狙った連続殺人犯でもないです。ただ……人と話したいだけなんです」 「そうなのね……」  彼女は憐むような顔を見せる。自殺者に憐まれるとは。 「悪趣味ですかね? こういうの」 「悪趣味とも言えなくもないですね。私は気にしないけど。君、華奢そうだし、君のほうが心配。こんな夜中に」 「まあ、なんとか運が良いのか悪いのか、命の危機に関わるようなことはなかったです」 「そう……」 「どっちにしろ、どうでもいいから散歩してるのかもしれないです。通り魔に刺されようが、チンピラにコンクリートに埋められようが。今日は生きるの目が出てしまったんだな、と。死ぬことに消極的だけど、生きることにはそれ以上に積極的になれないんです。幽霊の気分で散歩して、自殺志願者がいたら話しかけて……。生きようとする人間は怖くて、なんか喋れなくて……。って僕ばかり喋ってますね。なんかすみません暗い話ばかりして」  彼女はくっくっくっと口元を隠しながら、漏らすように笑った。 「な、なんかおかしなこと言いましたかね……?」 「いや、自殺志願者捕まえて、『暗い話してすみません』って面白いなって」 「は、ははは……」  そんな話をしているとコンビニが近づいてきた。持った買い物カゴに大きめのビールを二本、彼女が入れた。僕はビールが飲めないから、チューハイの五百ミリリットル缶を一つ入れて、レジへ向かった。僕が財布を取り出そうとすると、それを制して、「どうせ持ってても意味ないから」と言って、彼女は財布を開いた。驚いたのはその中身で、特に凝視しているわけではないのに、札束が見えた。彼女は諦めて帰ることもできるし、これから適当に旅をすることもできるわけだ。そう考えると急に生身の人間に思えてきて、複雑な気分になった。それでも彼女の顔は、未だにこれから消えゆくものの美しい顔をしていた。  コンビニから出ると、彼女は今までの方面とは反対方向の道を指差した。 「ここに灯台なんてあったんだね。初めて来たから知らなかったよ」 「入ります? 入れますよ」  高校の頃、頭の悪い高校だったからピッキングが流行っていた。僕より頭の悪い奴は店の物を盗んだりして捕まっていたが、僕はそいつらより目的も度胸もなかったから、もう使われていない灯台に入ってぼーっとしていた。鍵が未だに変わってなければまだいけるはずだ。「ちょっと待っててください」と言ってコンビニで針金とドライバーを買う。 「じゃあ、行こっか」  自分の地元なのに、彼女に手を引かれ、灯台へ向かう。灯台の門は身長より少し高く、僕は彼女が門を登るのを手伝った。門を跨ぐ際、薄ピンクのパンツがめくれて見えた。パンツが見えて照れ隠しに笑う彼女と、パンツを見た照れ隠しに笑う僕がいた。  ピッキングをしようと思ったが、鍵はもうすでに壊されていて、誰でも入れるようになっていた。保存のための管理もされていないのか、扉がぎいぎい音を立てた。頂上へ登る螺旋階段は急で、思ったよりも疲れる。 「ねえ、君」 「はい?」 「君ってなんて名前なの?」 「千葉、ですけど……」 「ふーん」 「結構、こう言っちゃなんですけど、今から死ぬ人に思えなくなってきました」 「え、なんで?」 「今まで自殺志願者に名前なんて聞かれたことなかったし、お金も結構持ってるの見ちゃったし、もしかしたら死のうか迷ってる人だったなら、僕が背中を押してしまうことになるんじゃないかって思えてきて、そう考えれば考えるほど生身の人間に見えてきて」 「……。安心して。死ぬよ」  彼女ははっきりと言った。 「私は死ぬよ。ちゃんと死ぬ。今ここで君に乱暴されたっていいし、お金をあげてもいい。ちゃんと全部諦めてる」 「いや、乱暴はしませんけど……」 「じゃあお金いる?」 「まあ、欲しい欲しくないで言ったら欲しいですけど……ってそうじゃなくて!」 「そうじゃなくて?」 「……なんでもないです」 「言ってみてよ」 「嫌です」 「ねーえ、言ってみてよ」 「……『なんで死ぬの』とか『生きてください』とかは言わないようにしてるんで」 「ふーん、生きててほしいんだ? でもきっと、生きようとしたら君の好きな私じゃなくなるよ?」 「それに、責任だって取れないですよ。死にたい人は今日を死にたいわけじゃなくて、これから先全部を死にたいんだし」 「そうだねー。あれ、こっちのドアは鍵かかってない」  彼女がガチャリと展望台のドアを開けると、突風が闇から吹き抜けてきた。今日は曇りで、星も何も見えやしない。 「残念でしたね」 「そうでもないよ。こうして我儘も聞いてもらったし、それで充分。お酒飲もっか」  僕たちはそれから無言で酒を飲んだ。酒を運んだビニール袋が風にさらわれ、空き缶がそれに続いた。彼女はビールと一緒に錠剤を大量に飲んでいた。彼女のビールの空き缶が風に吹かれて、錠剤の殻も飛んでいった。 「セックスさせてくれませんか?」  もう、彼女は数時間後には消えてしまうのだということが理解できた。消えてしまうなんて綺麗な言い方だ。崖から飛び降りて、ぐちゃぐちゃになって、消えゆく美しさは消え、醜い残りカスになるのだ。ありありと想像できた。だからこそ言えたのかもしれない。僕は圧倒的に生者だ。だから僕の方が強い。 「ん、いいよぉ」  彼女の表情はなんだかあべこべになっていた。顔のほとんどは死をシリアスに考え固まっていたが、目だけはやたらととろんとして、僕の目を見ながら、後頭部、もしくは曇のことを考えているかのようだった。  それから僕らは展望台から降りて、階段でセックスをしようとした。けれど、うまくいかなかった。彼女はいくらなにをやっても濡れなかったし、僕もうまく勃たなかった。彼女がぺちゃぺちゃとペニスを舐め、僕は少し柔らかい勃起をした。彼女がほぼ無理矢理ペニスをヴァギナに入れると、僕はぎこちなく動いた。しかし、それだけだった。僕のペニスはすっかり萎えてしまっていた。 「ごめんなさい。自分から誘ったのに……」 「気にしない気にしない! 生きてればいいことがあるよ。あはははは!」  僕らはとぼとぼと(とぼとぼとしていたのは僕だけだったが)、来た道を帰っていた。彼女は薬のせいかビールのせいか、馬鹿みたいに上機嫌になっていた。 「私は千葉くんのこと好きだからさ。全然がっかりしてないよ」 「ありがとうございます……」  それから二人を沈黙が包んだ。歩幅はとぼとぼと歩いてる僕と、上機嫌な彼女とでは大きな差があって、彼女は時々僕の十メートル先くらいで、 「はやくはやくー! 死ぬの間に合わなくなっちゃうよ」 と言った。  彼女は本当に死ぬのだろうか。そんなことばかり考えていると、崖についた。彼女は飛び込みの選手みたいに体を慣らしたり、ぴょんぴょん跳ねたりしている。 「本当に、死ぬんですか……?」  彼女は僕の顔を下から覗き見た。 「うん、死ぬよ。そうだ。お金欲しいんだったよね」  彼女は財布から二、三枚取り出し、少し考えたあと、一枚を財布の中に戻して、財布ごと僕に押し付けた。財布から取り出した物は紙幣ではないことはわかったが、なんだったかはわからない。 「ねえ、私が死んでから財布を見てね。それが礼儀ってものだよ。千葉くん。これからの自殺志願者捜索に役立ててね」 「い、生きてみませんか……?」  言わないと決めていたのに、愛おしくて言ってしまった。彼女はあべこべな表情から、一瞬普通の表情に戻って、 「ごめんね……」 と言った。それから、あの薬と酒の酩酊の笑顔をした。 「じゃあね」  そういうと、彼女は崖に向かって十メートル歩いた。崖の一番先で、彼女はしばらく下を見た。それから、飛び降りるというより歩くように前へ進んだ。それから、僕は恐る恐る崖から下を見た。暗闇を波の音が揉んでいるだけで、何もわからなかった。多分、とも思わなかった。絶対、死んだ。僕はそれでも何回か呼びかけて、生きているか確認した。呼びかけがやけに響いて、響きさえも消えた頃、僕は帰路についた。道中で財布を確認する。どうして死んだのか、どうして持ち歩いてたのか、わからないくらいの紙幣の中、隠れるように写真があった。健康そうな彼女が、おそらく夫、おそらく子供に囲まれた幸せそうな家族写真だった。なんでこれを僕に遺したのか、なんとなくわかった。彼女は僕のことなんか全然好きじゃなかったのだ。考えていたのは家族のことや愛する夫や子供の顔で、僕がいようといなかろうとただ何事もなく死ぬ人間だったのだ。最期にその想いだけ伝えようと、この写真を遺したのだろう。多分、彼女と一緒に消えた、財布から取り出した物も、写真だろう。僕はこの写真を貰ってよかったのだろうか。本当は一枚でも多くの幸せな家族写真と共に死にたかったのではなかろうか。今となっては僕が命を助けることができたなんて思いもしないが、僕が関わることで、最高の自殺にケチをつけてしまったのではないかと、そればかりが気にかかる。  こうして、僕は自殺の名所を避けるようになったのです。