反日常系

日常派

日記

 金がなけりゃ死にたくなるのに、金があれば使ってしまうし、金がなくても使ってしまう。悪癖。そういうことを繰り返していると、金を使う使わないが存在しない場所に行きたくなる。例えば精神病院の鍵のかかった病棟だとか、原始共産主義の国だとか。格好のつく狼藉は無頼派の小説家でもないし、全然身についていない。せせこましい眠剤遊びだとか風邪薬の過剰摂取だとか、その程度が精々だ。睡眠薬で忘れた記憶の中にある睡眠薬を取りに戻りたい不眠の深夜。記憶するに値しないことばかりで嫌になる。記憶するに値しないということだけ記憶している。

 文章を通して、君らの掌に賄賂のごとく弱みを握らせているのは、単に弱みしか握らせるものがないという理由と、単にそう思われたいという理由が分離不可能に渾然一体として存在する。全ての感傷に言葉を費やして、そうして読み手の眼前に幻覚でも見せることで少しでも同情を誘い、憐れみでもいいから良く思われたい。元来、日本国では詩情が異性の気を惹くステータスだった。ポエジーは舶来のマッチョイズムに淘汰され、人々の価値観は外でマンモスを狩っていた頃に戻された。そもそも、詩情に価値があった頃の方がおかしかったのだろう。しかし、実用性のないものに価値を認める時代の方がいくぶんか面白かったように思う。

 才能を撒き餌のようにして女を誘き寄せた各時代の文人たちの手法を、今の時代模倣しようとも、時代や価値観にそぐわないため、それは無為に終わるだろう。客の質が変わることに左右されない客観はない。

 元から、それほど人に自分の価値を見出されたいという訳でもないのだ。ただ、人に好かれている自分が好きなだけなのだ。これは自己嫌悪を含むかなり穿った見方だということは書いていてもわかるが。性交はそれなりにしたいけれども、それを目的に何かするという訳でもないし、人に好かれて安心と満足はするものの、それを維持しようとも思わない。ただ通り過ぎる人たちに好かれ、好いてくれた人が通り過ぎることを祈っている。人は自分を映す鏡だと言うが、人を通して自分の顔を見ていたい。そしてその自分がどの鏡でも同じ顔であることを確認したい。酷い話ばかりしている。それでも自分に好感を持ってくれる人はありがたい。いつか自己嫌悪のない関わりやすい人間になって好意を還元したいと思う。今のところはこんな自分でごめんなさいと思う。