反日常系

日常派

歯が痛い

 歯が痛む。歯痛ほど人間が快不快の奴隷だと認識させられるものはない。歯が痛むのだが、顎から歯の下へと至る所のしこりもまた痛む。インターネットを検索すれば何やら、それは耳鼻咽喉科に行けやら何やらのたまっている記事が引っかかる。なぜ医師が無数の科に分かれているのかわからん。また歯科に行くのだか、今度は耳鼻咽喉科に行くのだか、どちらか知らんが面倒くさくてたまらない。

 しこりとはもう片手では数え切れない年数、寝食を共にしている。今まで切除せずに暮らしてきたじゃないかと恩を売ろうにもしこりは自分の一部であり、自分が恩や仇をまともに返したことなどないことを思うとその作戦が功を奏さないことくらいは察せる。

 歯が痛むので何も食べることが出来ずに日々を過ごしている。ドーナツさえ痛みに眉をひそめて面白くなさそうに食べている。エルヴィス・プレスリーはドーナツと睡眠薬で不健康を全うして死んだが、その不健康の中に、歯痛は幸いにもなかったようである。ドーナツの過食も睡眠薬も、不快ではない。不快ではない不健康は、それを放置できるというメリット兼デメリットがある。それを野放しにしておくと、看過できないほどに助長してくるのだが、恐らくエルヴィスはそこまで至らずに死を迎えたのだろう。それが良かったのか悪かったのか、俺は知らない。ただ歯が痛むということに何百字も費やしているのが馬鹿馬鹿しいが、人の行動原理は快不快である。そのハンドルをぎゅっと握られているんじゃ、とてもじゃないが居てもたってもいられない。寝る前に歯痛のない朝を想像して床に就くが、朝起きた時に全てを察して憂鬱になる。

 歯痛と言えば坂口安吾の『不良少年とキリスト』の書き出しである。歯痛を書いた文章の中で最も素晴らしいものと言って差し支えない。文豪は歯痛すら素晴らしい文章に変えてしまうので驚く。人間は言葉によって世界を認識しているのだろう。その解像度が高ければ高いほど世界は鮮明に映り、人に世界を説明する時も綺麗に映せる。坂口安吾は「歯が痛い、などゝいうことは、目下、歯が痛い人間以外は誰も同感してくれないのである」などと言っているが、歯が痛くても解像度が低ければ歯が痛い人間にすら同感してもらえない。坂口安吾ですら歯が痛いことは歯が痛い人間以外は同感してくれないと言っているのに、俺が歯が痛いと喚く意味を考えさせられるが……。

 兎にも角にも歯が痛い。こんなことを書く意味などない。歯が痛いと歯が痛いということしか言いたくなくなるし、その典型的症状Aとして文字を費やしただけだ。ただただそのうわ言すら素晴らしいものに変える解像度を羨ましく思っている。