反日常系

日常派

老婆心と秋の空

 病院への道を辿る。俺は発狂した老婆が絶叫しながら歩道を歩いているのを見ている。最初はなにか大声がしたと思って、イヤホンを外した。そして声の発生元のあらかたの方向を察知する。振り返ると自分が歩いている歩道と反対側の歩道にいる老婆と目が合う。急いで目を逸らした。老婆は俺に向かってなのか世間への不満なのか、それとも単に今自分が感じている不快へなのか、ともかく何かへの非賛成を声高々に叫んでいる。

 この辺りは発狂した老婆が多い。同一人物なのかもしれない。顔に刻まれた皺で老婆の区別ができるほど、俺は老人に明るくない。兎にも角にも、カートを押しながら叫ぶ老婆を何回かこのエリアで見かけたことがある。

 俺は頭の中で、自衛のために老婆を殴打しなければならなくなった場合、それは正当防衛になるのかについて考えていた。老婆の顔をボコボコにぶん殴ると老婆の歯が折れ、吹き出た鼻血から血の匂いがした。俺は老婆の胸元を掴み上げ、キリキリと首元をシャツで締めあげた。空想が一段落した頃、気付くと俺は老婆から遠く離れていた。イヤホンを耳の中に詰め込み、音にまみれながら、今あったことをまた反芻する。

 そろそろ死ぬという点において、老婆は暗喩的に蝉を連想させた。叫ぶという点においてもそうだ。老婆は夏の終わりを惜しむ蝉のようだし、蝉は気の違った老婆のようだ。俺の汗ばんだ長袖のTシャツが秋の報せを体に届けていた。

 夏が終わる。もう夏は終わったと言う人もいる。無職は社会的慣習に何も関与していないため、長期の休みなどから季節の移り変わりを推測することが出来ない。個人的に、今はそういった夏の終わりから秋の始まりのグラデーションを右往左往しているというイメージだ。夏は地面にのたばって、時折寝返りをうつ。そして我々は「夏がまた起きるのではないか」と怯え、結局寝息が深まるのを聞いて安心する。

 毎年夏は青春のメタファーみたいな顔をしながらやってきて、俺たちに茹だるような暑さを与える。メタファーを意識しながら俺たちはそわそわするのに、結局何も出来なかったと落胆しながら夏が去るのを見送る。今年もそうだった。でも最近は昔ほど辛くない。もう青春の幻想を追っていい歳ではないからだ。だから、最近の漫画アニメは転生するのだろう。いずれ、俺たちもこの人生が上向くなんて幻想を追っていい歳じゃなくなる。紛らわしてくれる都合のいい空想も上手く出来なくなっていって、人生と同時に創作物に対しても幻滅する時が来る。その時まではマシになっていたい。