反日常系

日常派

散歩思案

 去年か一昨年と同じ道を歩く。いつも通り散歩をして暮らしている。去年はスマホに気を取られて気付かなかった落葉に気付いて、気付くという行為そのものの高揚感に包まれる。木々は無鉄砲とも浅はかとも言えるスピードで葉っぱを降らしているのに、いつまで経っても葉っぱがなくならないことを不思議に思う。

 去年だって俺は何年同じことを繰り返すのだろうかと考えていた。今年も何年同じことを繰り返すのだろうかと思っている。一年間でした成長は落葉に気付くだけだろうか。しかしそれを軽視することはできない。ひっくり返った蝉の死骸が、落葉に埋もれて隠れていく。踏み潰される音さえそれが蝉とは思われず、葉っぱのくしゃくしゃとした音だと思われる。動物の死骸を見るときの安心感。死が自然と共に人間界からある程度離れていることを認識する。

 兎にも角にもこの文章は自己嫌悪に陥るクリシェにはなかなか着地しないようである。自己嫌悪に関する文章は書き慣れて、文字数が満足いくまで自分の至らぬところを書けばすぐに文字数は埋められるけれど、落葉に気付いたというそれだけの高揚感がなかなかそうはさせてはくれない。秋も終わる。気温の低下による鬱を発症しない分、入院もしていない分、例年よりいくらかマシである。少しの成長は役に立たない方面ばかりではない気がする。落伍者としての成長を続けていきたいという気持ちもある。自己嫌悪を続けることと同義だが……。少しも生産性のないものは清いと思う。社会に少しも関与しないもの。そういう人でありながら他者と関わりを持つのはかなり難しいと言える。しかし、少しも利益をもたらさない人間でありながら、人に必要とされるなら、それほど幸せなことはないだろうな。

 幼稚園児が馬を連れて先生と散歩しているのが見える。子供たちは思い思いの方向に馬を引っ張り、馬は辟易しているように見える。散歩とは無為なものだが、観察者になれることは精神上の安定をもたらす。患者たちは観察され、分析されることでさらに疲労する。俺はいくらか観察されることで危機に接近しているかのような気持ちでいすぎたかもしれない(生き物は視線を感じると、その動作の主体がどうであれ、敵意の存在を頭に入れるものだ)。