反日常系

日常派

日記

 文章なんて、鼻くそをほじりながらでも、涙と足の裏で書くのでも、結局は見られん限り同じだと思っていたら一ヶ月以上書かないでいられた。文章を書きたいと思う気持ちはなくもないが、日々があまりにも怠けるのに忙しすぎたため、まとまった文章を書くにも読むにも億劫になってしまった。今こうして文章を書くのもさしたる理由なく、ただ酒の赴くままが文章だったというだけである。

 酒を飲むと、僕が酒を飲むスピードが異様に遅いというのもあるが、酔いが回る頃には陽が暮れかけているという塩梅だ。ゲロを吐いたり頭痛がしたりと、そういった細々としたところにくだらない退廃を感じなくもないが、内心はおみくじでも引くみたいに「今はこの結果が出たに過ぎないではないか」と思う。人間が人生で飲める酒量は人によって総量が決まっていて、そのゲージを毎日少しずつ溜めているのだろうが、自分がそのゲージを満タンにするだとか、その後どう生きるだとか、体を壊すだとかの心配は──まだ若いと言って差し支えないのであれば──若さゆえに浮かぶことはない。僕もいい加減歳をとるし、歳をとってきた。毎年365日事にやる一喜一憂も、いい加減飽きてきている。いっその事火星か、もっと遠い星へと移住すれば1年が長くなるために歳を取らないでいられると思うが、そうしない理由は百個ぐらいある。その中には浅慮のために科学的内容は含まれていないが。

 文章を書き連ねて、結局のところは憂鬱だとか退屈だとかのクリシェに至る。記事は最低でも千字は書こうという些細な意地のせいで、言わなくてもいいことを言い、言わなくてもいいことを言うために憂鬱になり、言わなくてもいいことを言ったために人に好かれない。こうした日々の無為な時間を、そうだと自覚しながら、少しでも前に進んでいると言い訳してやり過ごしている。前に進むためにしている全てのことは身につくこともなく、ただ猿に金を貸し付けているような気分になる。しかも金利の話までして。

 みんな猿に金を貸し付けているのかもしれない。その金は戻ってくることもあるのかもしれない。ただ、映画もアニメも酒も、いつの間にか猿の顔をして僕から去っていって、いい気分にして返してくれはしない。返ってきたと思ったら過払い金請求されて手元には何も残らない。それらは借りる時に猿の顔をしているのだろうか? 記憶の中では美しい顔をしていたような気がするのだが。