反日常系

日常派

日記

 身体から死臭でも漂っているのか、単に部屋を清潔に保とうと思う気力がないためか、無数の小バエが部屋、そして身体の周りを飛び回っている。小バエ捕りを設置するものの、小バエは減ってはいるが消えてはいない。湯を沸かしてコーヒーをマグカップに注ぐ。溶けきらないコーヒーの粉が浮いているのか、マグカップの中に住んでいた小バエがお湯で溺死したのか、コーヒーの中でも見える黒い点が二、三個表面に漂っており、前者であること、後者だとしてもその小バエが子供を孕んでいないことを祈りながら胃に流し込む。

 部屋では、干したまではいいものの畳む気力がない衣類が乱雑に絡み合っていて、移動する時にはそれらを踏んでシワを増やしてしまうが、それもこうして文章を書いているとそうだなと認識する程度であって、気に病むほどではない。ゴミ袋もパンパンの状態で三つほど部屋に置かれていて、万年床となっている布団以外で寝っ転がることを妨害してくる。袋が布団の領域まで侵食して来る前に、ゴミを出すことが叶うといいが。

 薬のせいか、単に体調が優れないためか、今日は倦怠感に身体を支配されていた。血の代わりに鉛でも流れているのではなかろうか。もしそうなら指の先をギターの一弦の先でもって刺し、鉛を出そうとするだろうなと空想するが、それを実行に移すほどの気力は倦怠感に奪われてしまっている。ただ悪寒とむず痒さに耐えながら一時間を待つ。長針が同じ箇所に戻ってきたのを見てから煙草に火をつける。悪寒とむず痒さのため、冷房を付けることが出来ない。幸いに外は涼しくなってきている。夜、公園へ行くと名前も知らぬ秋の虫が秋を報せているほどだ。しかし、悪寒を和らげるために毛布を四枚と羽毛布団を一枚被っている。それが適した程の気温ではない。

 こんな体調で病院に行きたくなどないし、感染症のことも考えると行くべきではないのだが、体温は平常とさして変わりはないし、咳も喉の痛みもない。歩くごとに足の裏がぐずぐずと崩れていくような気持ち悪さを抱えながら、足を引きずり、アスファルトに身体を少しずつすり下ろされているような気分でようやく病院に辿り着く。待合では一時間も待たされる。むず痒さと便意を取り違え、何回もトイレに行くが大も小も出ない。季節柄、エアコンが強いわけでもないのにガタガタと震え、貧乏揺すりを繰り返す。

 やっとのことで診察を終える。診察では手足のむず痒さがいつ起こるかなどを聞かれ、一日中だと答えているのに、医師は不可解な顔をして同じ質問を繰り返す。根負けし、「午前中です」と嘘を答えると医師はほれ見ろとでも言いたげな顔で納得する。元気があれば何かしら言ってやろうとも思うだろうが、そんな考えはあまりの体調の悪さで、今書くまで一ミリも浮かぶことはなかった。むず痒くなかったら、この足の動きはなんなのだ。常にツーバスを踏むかの如く忙しなく上下する足の先は? 堪えきれず組み始め、何回も逆に組み直す脚は?

 まあ、何事も僕の言葉に説得力や想像を喚起させる力がないために定型の症状を宛てがわれているのだし、大体の患者にとって医療とはそういうものだし、定型には定型の良さがあって、悪さもあるというだけの話である。少しでも面白い文体を手に入れることが出来れば、例外を人に伝えたり、この感覚に新しい言葉が宛てがわれたりするのだろう。人に好かれることも可能だろうし。何にせよ、文体である。それはコミュニケートの言い換えでもある。ただ悪寒としか言い表せない悪寒と、むず痒さとしか言い表せないむず痒さに支配されている。深刻さを伝えるためには、全ての感覚を言葉で通じさせるためには、語彙力が必要なのだが、あまりの不快さに言葉は脳の端から逃げてしまう。健康な時には言い表す必要がなく、また、不健康な時には言葉がない。そんな言い訳でこの文章を締める。辛い。