反日常系

日常派

糞尿にて思案したること

 酒をジュースのように飲み、日々に打つ句読点のように珈琲を飲み、行間のように煙草を喫んでいる。酩酊の定義が間違っているのか、身体か脳のどちらかが酒に強すぎる(弱すぎる)のか──そしてその推測のどちらも当てはまっているのだろう──によって酩酊が口の酒臭さと共に鼻っつらに眼前として現れることはない。その癖、身体か脳かどちらかは醒めたアルコールにやられているようで、先日、眠っているうちに糞を漏らした。夏至を過ぎ、徐々に気温を上げた六月末の汗と垢と糞に塗れたであろう僕の下着は流石に汚らしく思え、ゴミ袋に捨てた。

 まあ、糞を漏らしたと言っても、そこにいささかの含羞がないとは言えないが、含羞に塗れた言葉や出来事を排除しては何一つとして言えるものはないのだ。躁鬱の調子も落ち着いてきて、深夜、覚えてない夢に幻覚のような妄想のようなものの残り香を嗅いで、夢の中の谷底に身を投げたいと思うこと以外で辛いこともそんなにはない。アルコールを飲むとよく眠れるが、死体がその鼓動を止め、一時的に弛緩し、身体を自然に明け渡すかのように硬直するのに任せること、そしてその間に糞やら小便を漏らすことを考えるとアルコールは一時的にその意識を死に貸すことではなかろうかと思える。

 僕は死に貸して、その癖ろくな利息もなしに翌朝ポストに投函される意識を、また戻ってきてしまった、厄介な子供とでも言いたい扱いでまた酒に貸し出してしまう。いっその事意識が延滞されるか、または売っぱらってしまえるかを願うのだが、願うとは意識の領分である。なんだか良い気持ちだと思っていれば何一つ願うことはないのである。こんなことを言っているが(言っているので)、私はろくな酩酊も手に出来ないでいる。睡眠薬と安定剤を多分に飲むと今度は尿が出ない。最近、酩酊を呼ぶとされる薬全てで尿閉塞の症状が出る。何回も薬によって尿閉塞を呼ぶことを繰り返していると、いつか病院送りになるくらい尿が出なくなって困ることを、僕は既に一回経験して知っている。それに、酩酊も色の掠れた印刷みたいに徐々に褪せていくのだ。現実にモヤがかかる程度の酩酊に、何一つ焦がれることはないのだが、初めて酩酊に至れた時の感覚は、記憶の中が故に(逆に)鮮明に──鮮明とされているのは後に着色が行われたが故だろう。そんな素晴らしいものでもないのだ──脳裏に映り、見飽きた映画のワンシーンの為に再生ボタンを押すかのように、プチプチと音を立てて錠剤を出してしまうだろうなと思う。

 糞尿のことばかり書いた。糞尿のことはくだらないが、くだらないが故に重大だ。貴方も糞を漏らすか、尿が出ないかで騒いでみるとよろしい。何故僕がこんな文章を、感傷はないにしてもある程度の特筆に値する感情を持って書いたかがわかるだろう。くだらないこととは前提になっていることである。前提が覆された時に僕達は呆然とするしかないのだ。