反日常系

日常派

日記というより意識の説明

 六月になった。定期的にやるこの報道じみた──それにしては言葉を忘れたみたいな──書き出しをやめようと思うのだが、時間が経ったことくらいしか興味を引くものがない。ただ時間が経つのに任せる。その時折の感情も頓服薬の眠気と綯い交ぜにして、ぼんやりしているうちに過去のものになる。結局のところ、予約された未来を過去にしていくだけのことしかしていない。学生だって、期限がついているだけでそれと同じなのに、何故僕らはユースに惹かれるのだろうね。学生の頃、汗臭い体操服をバッグに詰めたり、遠くから吹奏楽部がスケール練習しているのが聞こえたりするのを、きらきらとした高揚感に似た感覚を付随させずに思い出すことができないのは本当に何故なのだろう。退屈と若さ故の悲劇性を往復していた当時は「こんなものが懐かしくなるはずがないし、もしそう思うなら歳をとって若者を理解できなくなっただけだ」と思っていた。過去を懐かしむ度にその当時の自分が恨めしそうにこっちを睨んでいる。もう、高校生の頃から十年程経つのだし、当時は大人の一人だと思っていた自分も、今では頭を撫でてやりたいほどガキに思える。それにも関わらず、自分は何を獲得できたか。言葉を詰まらせざるを得ない。

 ただ前からやってきて後ろへ消えていくだけの日々から期限がなくなるだけで、どうしてこうも寂しくなるのだろう。

 

 辛くなっては頓服薬を用量を守って飲む。眠気がやってきて、それでも眠れないと察しながら横になる。目を閉じて、微睡みほどではない何かを体感しながら、何かしでかしてしまいそうな気持ちを何もできないに変える。陽が昇りまた傾くのをカーテン越しに感じ取る。また時間が過ぎていく。時間。好き勝手に時間を自分含め止められたらいいのにと思う。存在、存在に付随する意識。意識は流れだから、時間を必要とする。意識の流れを止めてぼんやりしていたい。低き低きへ、高き高きへと騙し絵の様に無限に周回する意識のために、どうしてこんな無気力を疲労に変えているのだろう。存在するだけで、意識が流れるだけで、さして負の感情がある訳でもないのに疲れてしまう。死にたいとは思わないが、一瞬だけこの世界から除外されて休みたいとは思う。夕方のチャイムが鳴った。生きようとも強くは思わないが、生きようと強く思えるようになったらいい。それが最善なのはわかっている。子供たちが犬の散歩をしている老人を駆け足で追い抜いていったか、すれ違ったのを路地からの音で感じ取る。誰かが都会でバッグを持って歩き、日焼け止めが日差しを弱めながら日差しはそれでも確実に肌を焼いているのだろう。そういった営みの中にいつか戻れるだろうか、またはそう願わずに済むくらい除外されきることが可能だろうか。最善な方が僕の意識を、その流れを感じさせないくらい良方につれて行ってほしい。