反日常系

日常派

事故現場観察

 喪失が何かを与えるということは、何か出来事が我々に何も与えないことの不可能さを考えると、当たり前の道理として受け取るしかない。喪失の種類が、先の大戦学生運動と震災や流行病では大きな違いがあり、劇的さも敗北も奪い取られた品名のない贈り物を我々はどう受けとったら良いものか首を傾げているというのが、昨今の虚無の実態であると言えよう。

 喪失を思う時喪失が同じように僕に思っていると感じる。僕が近頃喪失を思うのは──世代の集合的喪失ではなくただ他人の個人的喪失を推察するという形だが──、近隣住民だろうか被害者親族だろうか、事故現場に手向けられた花たちである。花束が雄しべを川に向け、その鼻先を風がくすぐるに任せている。花びらが風によって姿勢を飽きた子供のように刻一刻と変えているのに対し、花のそばに悠然と立っている瓶コーラは中身を揺らすことなくただ事故現場を眺めている。人の死になにか感情が突き動かされること、そこに野次馬根性が一ミリグラムとも介入していないとは嘘でも言えない。川に向かって立つ。汚い川がちゃぷちゃぷ不定形のその姿を揺れるがまま揺らすに任せている。匂いはしない。川の中程に人が溺れているのを想像する。想像の力は強く、実際視界に手を挙げて顔を出している人間が居るような気さえする。他人の悲劇で感情を突き動かされたいという下卑た感情がないかを常に自分の内奥に向けられた架空の眼球で持って精査する。望むらくはそんな感情などなく、ただ花が見たくて川岸まで歩いてきたのだという態度だ。反対は、ただ僕は人の悲劇にすら与したいという態度。前者であることを願う気持ちがある段階で既に架空の眼球は意味をなさない。こんな文章を書いている時点で後者であるのかもしれない。ただ、僕は川に向けて置かれた、根元から切られた花の美しさについて語りたかったのだ。その風景がとても美しいものに見えて、ただなんとなく描写したかったのである。流石にカメラを構えてパシャパシャとやる度胸はないし、やろうとも思わないが、似たような恥知らずであることはこの文章が否応にも暴いている。

 いっその事、この瓶コーラが瓶ビールであって、その瓶ビールを頂戴するためにここに来ているのならよかった。生きるためなら切実だ。酩酊するためなら切実だ。そんな下品を超えた理由を僕は持てずにここに来てしまった。ただ何かにつけて最低だと思い込みたい、劇的志望な感情が自嘲に向かったクリシェの型に嵌りたがった。自嘲すら楽しくやってのける感情が、昂るためだけに僕をここに向かわせた。川は人が死のうと魚が泳ごうとただ観客の集団のように聞こえないキックとスネアに合わせてその体を揺らしている。