反日常系

日常派

日記

 酩酊の手段をなくして、仕方なく残りのレキソタンを安定するためにちびちび飲んでいる。存在、存在が存在するために必要とする時間。時間が僕には我慢ならない。生きている、息を吸って吐いている、秒針が六度ずつ動く。全てが僕にとっては我慢ならない。僕は時間を睨んでは実の所何も恨んではいない。一時間が経つ。僕はつまらなそうに煙草を喫む。灰皿に吸殻をぐしゃぐしゃとやる。本日は今のところ七本。七時間起きているということの証だ。僕に残された暇つぶしと言ったら、文章を書くことくらいで、他のことは面倒くさくて適わない。文章も下手の横好きといった感じで、美辞麗句や表現技法などもなく、思っていることを書く。屁が出れば屁が出たと書く。興が乗れば屁がマンドリントレモロのような音を出したことや、笑ってお茶を吹き出したかのような肛門の様子を描写する。

 なんで生きているんだろうね、と、酒も入っていないのに思う。無駄に掃除をしたせいで床から書籍が消滅して、よそよそしい背表紙が棚で俺を睨んでいる。そうも敵対されると僕だって読む気にはなれない。あんなに仲良かったじゃないかとも思う。表紙のサングラスをかけた痩せた男とサイコロジカルブルース解凍という書籍名。簡単に思い出せるのに背表紙ともなると、指を書籍の頭にかけて引っ張り出そうという意欲もなくなる。

 僕は文章を利用して何か作っているような気分になり、その気分まで利用して人生の言い訳をしている訳だが、書くこともなくなってくると言い訳も上手くできずに死にたくなってくる。何かを想像したい。物でなくてもいい。神でもいい。自分一人さえ騙すことができれば立派な神様なのに、神様は白い髭もフォークにまとわりつくスパゲッティの形も見せない。

「神様がいれば、この世界の悪いことはすべて神様のせいになるでしょ」というようなことを小説やそれを漫画化した書籍で読んだ。僕の朧気な脳内からの正確じゃない引用だ。そもそも無神論とは一種の信仰だった。日本では生理的忌避感によって持たれる無神論だが、元々は神の否定という無形の信仰だった。僕は神を信じたい。今僕の頭の中にある神に近いものは西洋医学だ。誰か、カウンセラーでもいい。僕の考えを見透かしてくれないか。そんな僕の考えは、「僕の考えや環境は軽蔑されることはない。むしろ哀れまれるべきだ」という信仰に結びついている。いや、ちゃんと「軽蔑されるに違いない」という考えとも結びついている。人間は矛盾するのだ。だからカウンセラーは頭の中で最も大きな割合を占めているものを言い当てるだろう(数回しかカウンセリングに通ったことはないが)、気狂い(患者)から防御の姿勢をとるカウンセラーは小さな割合の矛盾する考えも言い当てるだろう。

 僕は通ってる病院でカウンセリングを受けることにした。神様(カウンセラー)が奴隷道徳を嫌わないことを祈る。キリスト教的に、敗者に優しく笑いかけることを期待する。

 

 ところで、僕は寂しい。自分勝手な僕の脳は相手の都合も考えず、嫌われたのだと信じて薬を沢山飲んでしまう(その結果は前回の記事を参照してもらいたい)。誰でも良くない誰かと喋りたい。カウンセラーが誰かになってくれるだろうか。金を払って見透かされに行くなんて馬鹿みたいだ。キャバクラやガールズバーは虚栄を張るために行くのに。自分の醜悪な内面を見られたいのかもしれない。それはM性感にも似て、ある種の快楽をもたらすのかもしれない。でも、寂しさは解消されないだろうな。寂しさとその解消は全くもって快楽に直結しない。安心が欲しい。

 

 夏の小休止みたいな五月がもうそろそろ終わる。病院前で開院を待っていると直射日光でヘッドホンが暑くなる。ヘッドホンを頭から外して首にかけると、少しの音漏れがして、熱くなった頂点が首の後ろを温めた。待合室では身長の高い心が女性の人ばかりいる。どこで買うのだろうという長いワンピースを靡かせている。病院のスピーカーは半分壊れかけていて、医者の声を掠れさせる。スピーカーの音を聞くためにヘッドホンを装着することもできない。割れた音声のために名前が不明瞭に呼ばれた。背の高い女性のうちの一人が診察室へ向かう。受付では新しい背の高い女性が、女性らしくない──そのくせ高い──声で受付を済ませている。僕はすぐさまここから逃げ出したくなる。