反日常系

日常派

日記

 朝起きると、時間が無限に引き伸ばされるような感覚に陥った。日射しはチリチリと光速で尾を引いて、枕元にようやく到達する。夜中は定期的に起きる。起きたのだからと冷蔵庫の明かりを手がかりに煙草に火を付ける。煙草は定期的に吸いたくなるが今は美味いと思うことはない。違う味違う味へと銘柄と味覚をサーフィンさせると、結局のところ今の銘柄が一番いいという、郷愁にも似た結論に至る。

 無限に引き伸ばされている時間の中で、ひとつの思いつきが抗い難い欲求によって何度も思い浮かぶのをかき消そうとする。市販薬で時間を体験にすり替えて、曖昧にしてしまいたいという欲求。眠たさとそれを綯い交ぜにしてやり過ごす。郷愁にも似た欲求とは、知識から体験への流れがあった上での、経験から知識への還元によるもののような気がする。知識は色褪せてしまうが、体験は常にフレッシュだ。そんなことを言っていると、朝枕元に降りる光の尾さえ、時間が高速で進む老人になった時に懐かしく思えてしまうだろう。だが正しい。

 廃墟やら人気のない街などすら人気になるように、シティポップという名の工業的ポップスの徒花もそうして人気になってから幾数年経つ。そういったブームは、僕の『若者の興味を惹くのは真新しいノスタルジーである』という意見を強く補強する一例のように思え嬉しいが、この話は本題に関係ない。なんとなくシティポップを聴く。ポップスの持つ空虚さはロックの持つパーソナリティを演技する性質とは大きく違い、あまりにも空虚で、未来に飛ばされて砂に埋もれたビルを見ている感覚にさせられる。冷笑家になれば空虚すらユニークだが、見せかけのパーソナリティに魅力を持つ文化で生きてきた為に冷笑家になることも叶わない。ただ今は構造だけが見えるためにデフォルメされたようにも思える過去の産物を聴いて悲しい気持ちになる。悲しみは僕らを凶暴にさせたり、虚脱に陥らせたりするけれども、それがアルコールの作用と何が違うのかというと口をつぐまざるを得ない。

 何にせよ、シガレッツアンドアルコールなのだ。それは郷愁と悲しみと言い換えることが出来る(それはほとんど同義なのだが)。欲求を体験にすり替え、体験が経験へと変わり、知識へと還元される。その流れが終わる度に僕は体験を求める。その欲求の中で、今日は運良く市販薬を飲んで尿道をおかしくしたり、ベンゾジアゼピンを飲んでやっぱり尿道をおかしくしたりせずに済んだ。なにか新しい体験をと思う。それは郷愁の欲求とは全く違う、未来には依存になる、今はまだ知識の段階の欲求のことだ。