反日常系

日常派

病人(あるいは病人以下の)日記

 受付に「診察ですか」と聞かれ「診察です」と返す。待合には音無しのNHKが字幕付きで流れているが、誰もそれを見ることなく、スマートフォンか幻覚に相対している。通話機能付きという点で見ればどちらも同じだ。それにしても、受付と話す精神病患者のうわずった声がやけに耳障りだ。そのうわずった声の主が三人ほど変わった時に放送で僕の名前が呼ばれ、診察室に向かう。

 暖簾をくぐっているようにしか見えない僕の会釈を、そうだとわかっていながら不格好に行う。それから僕は椅子に浅く腰かけて背もたれにもたれ、うなだれた。

「どうでしたか」と聞かれ、良好という言葉と日記をおりまぜて答える。ピアスを開けたという話題には女医が僕の耳を見ようとする。僕は髪の毛を耳にかけ、片方の耳ずつを見せた。女医は「ファーストピアス?」と聞いた。僕は不恰好なファーストピアスを晒したことに気恥ずかしさを感じて身を縮める。「そうだ」と女医が思い出したかのように喋り始め、女医が四月に他の病院に転勤になることを告げた。続けて、そこは新規の患者を受け付けていないために僕はどうやっても診てもらう医者が変わることを丁寧に説明される。

「君が一番心配だからさ」

 と、微笑を浮かべ(医者の教科書には患者を心配させないために、軽蔑を意味しない程度の微笑を浮かべるべきだとでも書いてあるのだろう)、お世辞を吐いた。転院するか、後任に引き継ぐかと聞かれ、「受け入れてもらえる患者ならその質問は二択なんですけどね」と返した。僕は前に通っていた病院に拒絶されてから、何軒もの病院に断られ、ようやくこの病院に落ち着いたのだ。どこへ行くあてががあると言うのだ。自嘲気味に言葉もようやく返し、句読点の代わりに深いため息をつく。後任の人物像は「真面目」で「若い」「男」らしく、僕とは相容れないだろうという予感を与えた。真面目とは融通の利かないの言い換えである可能性を考えずにはいられない。若い正義漢だった場合、僕などは「あなたは病気ではなく、ただおかしいだけです」と言われるだろうし、これは被害妄想ではなく、経験に即している。その男は若くなかったけれど、ちゃんと医者だったし、一人の医者がそう言っているというのは完全に僕を打ちのめした。真面目な若い男と一から信頼関係を築くことを思うと、それは砂漠に巨大な建築物を建てる計画を聞かされた古代エジプト人の気持ちになった。

「男の人が苦手とかないよね?」

「えぇ、それは、まあ……」

「なんか苦手そうなタイプある?」

「サーファーとかだったら転院しますね……」

 女医は苦笑する。

「多分サーフィンとかやってないと思うなー」

「そうですか……」

「どうしてサーファーが嫌いなの?」

「運動部とは話が合わないだろうし」

「そんなこと言ったら私も高校と大学テニス部だったし」

「あぁ、別れを前に心の壁ができたのでちょうど良かったです」

「そんなー」

 女医が笑った。この医者が僕を見捨てようとしているとまで思い上がるつもりはないが、そう思い、それを伝えれば少しは重症に思われるだろうかと考えたが、すぐに打ち消した。

 それから最近聞いている音楽の話をして、次回の予約と薬の調整の話に移る。

「あの、前回薬減らしましたよね?」

「気付いちゃった?」

 悪びれる様子もなく、悪戯の成果を披露するような声を聞いて、愕然とした。

「先入観とかないようにこっそり減らしてみたんだけど」

「そういうのって無断でやることではないでしょう」

 苛立ちが薬の増減からのみ来ているとは思えなかった。おそらくほとんどが、身勝手に(人々は各々を身勝手だと思い、身勝手に生きているのだが)他の病院に行くことに対する、行き場も正論もない感情がもたらす苛立ちが、出口を見つけて押しかけているというのが正しいだろう。

「そういうのに僕の意向が反映されないなら、僕は何の為にここに来ているんです? 薬を減らされたことに対して異議を唱えているのではないんです。勝手に減らされたことに対してなんです」

「でも言わない方がいいと思ったので言いませんでした」

 女医は正しい物は正しいという、僕にとっては聞き慣れた対精神病患者用の文句を口にした。それは僕の反論は何一つ正しくなく、聞く余地もないという決定と何一つ相違はなかった。僕が患者である以上、医者の言っていることが正しい。それが医療という物である。

「例え善意だろうと、まず僕に話を通すべきです。善意を盾にすれば僕の考えが無視できるのですか? 薬屋に行けば薬のことなんてすぐにわかりますよ。ただ言ってほしかっただけなんですよ」

「善意とかじゃなくてさ……」

 それから同じような問答を繰り返した。消耗戦になれば健康体ではない分患者の方の分が悪く、しかも向こうはそれを生業としている。暖簾に腕押しさえする気がなくなって、深くうなだれる。正しくないと思われていれば何を言ったって正しくなく、狂人とされれば煙草の健康に対する注意書きみたいに、パッケージにでかでかとうるさいくせに誰も気に留めない言葉を喚くしかない。

 女医にペコペコとし、怒れる狂人ではないことをアピールしながら診察室を出る。受付で渡される処方箋を睨み、お薬手帳の履歴と今回の処方に違いがないことを確認する。

 それから、薬局で「無断で薬が減らされることはよくあるのか」と質問混じりに愚痴り(初めて聞いた事例だと薬剤師は言った)、帰路に着く。

 僕は家に帰ると、女医に対して手紙を書き始めた。冗長を目的とした冗長な乱文だ。これが何を意味するのか、未だ書き途中な為──たとえ書き終わっても──わからないが、文章を読ませることが一つの復讐におかしく直結していることはわかる。僕は死とエロティシズムについて、少しでも露悪的な脱線をしようと、援用する為にバタイユを開いた。