反日常系

日常派

バスの中で桜が舞った話

 精神科へ向かうのに徒歩三十分ほどかかることを思うと、今の優しい暑さにさえ耐えきれず(余談だが、僕は会う人々に「夏が嫌いそう」と言われるくらい目に見えて虚弱体質である。夏やそれを予期させる春、もしくはその名残の秋の暑さは好きでも嫌いでもないが、付き合う度に「お前はそういうところがあるよな」と思わずにはいられない)、バスに乗ることを決断した。駅の階段を下りてバス乗り場に向かい、バスに乗る。車体が動き出し、車窓は駅前から徐々に街路樹の数を増やしていく。桜の花がその花びらを風が吹くのに任せているのが見える。桜の木の下に死体が埋まっているだとか、桜の満開の時に気が狂うだとか、そういった言及と連想され慣れた名文を頭の中に反復させるが、伽藍とした頭の中は廃墟に鉄パイプを投げ捨てた時のように反響ばかりしていて、その反響が原型をぐずぐずにしていく。名作や名文に触れ、記憶の中で自分の手垢でべたべたになったそれらを見る度に、本体を有難がる気持ちよりも手垢に嫌悪感を覚えてしまい、素晴らしさを査収することができない。それは妄想と知りながら頭の中から消すことができない強迫観念の患者にも似て、脳裏でそんな話をしているうちに精神科病院へと辿り着く。

 混みあった待合室は不吉なほど早く人が捌けた。前の席に座った頭頂部の薄く髪を短く刈り上げた老人が、その頭頂部を後ろの席の僕に誇示しているかのような体勢で、椅子にもたれかかっていた。僕は今日から担当医が変わるが、その担当医が好きになれないことはわかっていた。それは「真面目な」「若い」「男」という前情報によるものではなく、前任に抱いていた傾慕の反動によるものだろう。そう思いながら、僕は診察室に入った。

 「真面目な」「若い」「男」はそうとしか形容できないためにそう形容されていたのだろう。真面目な、若い、男だった。それ以外にわかったことはない。そもそも、前任がこの男について詳しく知っていない、カルテ以外ではやり取りすらした事がない可能性を考える。新任との対話には呆れも疲れもしなかったが、そもそもそれらに至るほど期待をしていなかっただけだと気付くと、急に疲れてきた。処方箋を貰って(そして薬の増減がないことを確認すると)、右足の踵だけがやけにすり減るいつもの歩き方で肩を落として歩いた。バスが来たので乗る。

 バスに乗って、聴き慣れて新しい発見もないビートルズを聴いていた(これはビートルズは聴く度に発見があるという老人に対する皮肉ではなく、発見をする気も起きないという虚脱だ)。そうすると頭上から桜の花びらが舞う。どこから? という当然の疑問が無意識的に湧き、後ろを振り返ると、子供が集めた桜の花びらを車内に撒いているのが見えた。子供は水色のスモッグを着て、満足そうに笑みを湛えた表情をしていて、新しい教団のために拵えられた天使のように見えた。その瞬間、耳元で歌うビートルズが何か今までとは違うハーモニーを奏でたように聞こえ、幻でさえ新規に発見できたことが素晴らしく思えた。今でもその天使たちが脳裏に花を散らし続けていて、ようやく四月になったのだとカレンダーや時計以上の説得力でファンファーレを鳴らし続けている。