反日常系

日常派

駄文すら書けない

 久しぶりに文章を書こうと思うのは、何か素晴らしいことがあったのでも特筆に値する何かが見つかったからでもない。ただ日差しがそれなりに強くなっていることや桜が完全にその体を緑に変えていることはそれなりに文章になり得るだろうが、それを描写しても何にもなるまいという諦観に支配されて、ぼやけた視力故に乱反射する光や輪郭線を滲ませた葉っぱなどは精査されることなく目を通り抜け、記憶の端に引っかかることもなく一昨日の夕飯よろしく忘れ去られていく。文章を書く理由はそれをしなければならないのではないかという、暇ゆえに引き起こされる一種の強迫性による。格好をつけているが、こういうのは往々にしてあるものだ。例えば宗教、例えばダイエット、例えば勉強……。程度は違えどそういった感覚で、間隔が空けばそれなりに罪悪感も湧くというもので、こうして乱文を日記という体にしている訳だが、質を問わず書いただけで許された気分になるとは、形骸化した宗教的慣習にとても似ていて、こんな文章が何になると思わずにはいられない。そしてこの一文の構造が目ざとくなったと思ってその実、物差しを一つ得ただけの読者によって、「一文を短くしなければ理解されにくく、駄文になりますよ」などとほざかれないことを祈るばかりだ。そんなものは公共のデザインの考え方だ。本を読め。様々な本を読め。Twitterだとかnoteばかり読むな。いや、読んでもいい。だが、その物差しをブログに持ち込むな。僕はもはや旧体制側に回らざるを得なくなったブログの敬虔な教徒として、こうして回りくどく書いている。

 Twitterの影響が増すにつれて、人々は独り言という体で喋ること(それは大義名分を得て安全圏に居ながら他者と関わりたいという意思だ)に依存してしまった。僕も御多分に洩れず、そういった短文ジャンキーになってしまい、特筆に値する事ばかりが増えていき、作文に値する事は反比例して減っていった。短文ジャンキーは感情や情報をほぼ記号化した文章から読み取り、情感や知識欲、さらには言及欲とでも言おうか、何かしら一言言わずにはいられないという欲まで満たしている。凄い。凄いが、短文ジャンキーがこのブログに文章のいろはを教えようとして肩を回すのなら、僕は羽交い締めにしてでもそれを止めるだろう。公共デザイン的、つまりは記号化してしまった文章を書く気はない。

 だが、作為的に美文を書こうという気力も湧いてはこない。憧れる姿勢を探すとするなら、ブコウスキーだろうか。悪文や駄文を露悪的なスタンスで書きたい。今はまだそれは出来ていない。そこに至るまで、どのくらいの悪意と敵意が必要なのだろうか。そしてそれらは力の一種だ。故に僕を疲れさせ、筋肉痛を呼び起こすだろう。

 ハイパーグラフィアになりたい。それは書かずにはいられず、また、それに何らかの意味があると信じているという症状だ。意味のない文章を、自分に許されるために書いて、こうして吐き出すことになんの意味があるのだろう。摂食障害が吐くために食べる物はなんでもいいように、文章として吐き出す為に書いた事もなんでもいい。吐瀉物をトイレに流すのと同じように、この文章も水に流してくれ。もし、それであなたの中の水道管が詰まってくれるなら、それほど嬉しいことはない。