反日常系

日常派

寝不足とノスタルジー

 睡眠薬はあればあれったけ飲んでしまう。なので精神科への予約が近づいてくると、睡眠薬のない生活を強いられることになる。寝つきが悪いため、夜中三時くらいまですることない中、夜に浮かぶかのように目を瞑ってぼーっとしている。睡眠時間は足りているが、寝付きの悪さか眠りの質か、窓から朝日が顔めがけて差し込むせいか、よく眠ったと思う日はほぼない。虫を食う夢を見て飛び起きる。解離なのか夢なのかをまず確かめる。夢の内容を精査し、夢が夢であると確認が取れると、二度寝が出来るような微睡みは瞼から消えてしまっている。

 睡眠不足の繰り返しで、脳の裏のざりざりするところが、引き剥がされては癒着させられるような、そんな不快感を覚える。指先まで鉛を注射されているかのような倦怠感に、自分の指を針でつついて血の代わりに鉛がぷっくりと出てくる様子を想像する。その指で煙草を抑えながら、自分の生活にあげる線香のようにぷかぷかと吸っている。唇が乾きすぎて指で抑えずには煙草を咥えることすら敵わない。

 寝不足の中、小学生の時に見たアニメのことを思い出したり、嫌な自分を再発見したりするのは白昼夢の中に入っていってしまったかのような気持ちになる。どうしてこうなってしまったのかを考えるのは取り返しがつく頃合でないと意味がないのはわかっているのに、どうして……と考えずにはいられない。もう取り返しがつかないのであれば、過去など感傷に浸る麻薬でしかないが、感傷に浸る麻薬程度の使い道は残されている。しかし、ノスタルジーは実際に起きていないことすらも触媒にできる。過去は唯一の感傷の触媒ではないのだ。わざわざ古傷を漁る必要はないとも言える。ノスタルジーは性行為のように、経験がなくとも欲する、種の持つ本来的な欲望である。その欲望が何に掻き立てられるのかは人それぞれだが。ピーカン照りの見渡す限りの青い自然や、新年に白い息を吐きながら神社に向かうことや、桜の花びらが散る中、新品の制服の襟が喉仏を押して苦しいこと……様々なノスタルジーが感傷の触媒になる。なぜこんな機能を神、もしくは自然が我々に授けたのだろうか。答えはわからないが、ただそんなノスタルジーが我々の一部(もちろんその中には俺も入っている)を苦しめているのは確かだ。人生をより良く過ごすための機能は、人を苦しめもする。寝不足の中でそんなことを考える。鉛のような体にノスタルジーを感じるほど酷い未来が待っていないことを望む。