反日常系

日常派

白髪が生えた

 夜に思いつくものでろくなものはない。うつ病の変種であるノスタルジー。掃いて捨てるほどある思いはもう既に掃いて捨てたものが呪いの人形よろしく手元に帰ってきただけだ。外を吹き付ける風の音が白痴の弟の唸り声に聞こえる。昔の写真の背景から今はもう関わりのない人たちとの関わりを思い出す。

 白髪が生えた。二十五にもなれば当然なのか、そうでもないのかわからないが、歳をとったということだけは確かだ。老いたくないとは思っていないつもりだが、老いたという結果にたどり着くまでの老いるという経過が水をぶっかけるみたいに俺に自分の生を実感させ、醒めさせる。顎に産毛が生え始め、調子のいい何本かは引き抜こうとしても爪に引っかからずするすると逃げおおせる。

 昔の写真を見ていると、自分が可愛くて仕方ない。泣いてる赤子がかわいいのは直面している恐怖が人間にとって些細なことでしかないからだ。見てくれも理由の一つだが、赤子を可愛いと思うのと同じように昔の自分がかわいい。いつまでその理論で自分をかわいいと思うのかはわからない。年老いるということは人間にとってちっとも些細なことではない。若きと年長者は常に闘争を続け、それは常と言っても過言ではない程に年長者が若きをぶちのめす。それでも飽き足らず何故年長者は戦いを続けるのかというと、若いというだけで得られている物は年長者には不可侵な場所にあるからだ。女はその中の一つだ。人目のある場所でこう書くと、俺が一端の有名人だったなら、女性を物扱いするなとの意見が飛んできそうだが、この考えの元に綴られたうら若き女性と老人の恋愛もの(恋愛というにはおぞましいし、女性も人として老人を見ることはないため、恋愛をそもそも論や字義から考えるとこれを恋愛と呼べないのはわかっている)は数多く、日本文学の一つのジャンルだし、一般論としての話だ。そして常に老人は敗北する。

 ウエルベックは人生を二段階に分けている。早漏と勃起不全だ。俺は紛れもなく後者だ。勃起不全の代わりに、歳をとると人を誑かす何かを普通は得るのだろう。俺はただ役立たずなソレを得ただけだ。何を得ようとも、勃起不全の老人は慰めのマゾヒスティックな感情に身をやつす他ない。年老いた作家たちはいつもそうしてきた。老人が女を、物語上とはいえ手に入れるなんて恥知らずだ。ファンタジーすぎる。リアリストはいつもマゾヒストにならざるを得ない。

 歳をとった。歳をとるなら死にたいとは言わないが(もう遅すぎるから)、そう考えることは多々ある。もう若くない。女もいない。年老いるほど自分以外の何かを得ている訳でもない。老眼で輪郭がぼやけてきらきらしている過去が、プリクラの加工みたいに(忠実でない故に脳内で美しく補完されて)綺麗に見える時が来るだろう。助けてくれ。助けてくれなんて言っても誰も助けちゃくれない。タナトスに唆される年代は過ぎた。性欲も減退した。死に幾分か近づくことで若さを確認する児戯は今では出来ないだろう。無理な若作りみたいなものだからだ。手首の傷が薄くなって白みの混じったピンク色になっている。老いや成長を象徴されるような気がして、やっぱりなかなか受け止められない。また徒に手首を裂こうか考えている。どうせ死なないことはわかっている。そんなことしかできない。本気で死の鼻先をくすぐっていた時が懐かしい。