反日常系

日常派

笑いと「今年は何もなかった」

 精神科に行く。病状を話せば一笑に付され、診断書のチェックボックスがつかない症状はなかったことにされていく。待合室では見えない誰かに怒鳴り続けている常連がいて、薬局では拍手をしながら喃語を話す壮年の女性がいた。笑おうとも思わないが、それらは笑いと嘲笑を履き違えたインターネットの一部の人らには笑えるようなものなのだろう。いつからか、狂人やらおかしい人らを笑えるものとして捉える人々が増えてきた。俺はそれらを笑えない、笑おうとしないという範囲にぶち込んでいるが、真の無理解はどちらなのかと考えると、答えは出ないままだ。狂人であろうとしている人は、狂人と呼ばれる人らの中にはいないように思える。狂人は全て自認の内では病人か真人間であり、在らんとして在る人はいない。チック症を笑うのは知識や想像力の足らない人らだ。精神病にも、同じことが言えるべきだ。

 精神病以外にも、すべての笑われる対象を笑う人らには知識や想像力が必要だ。誰も傷つけない笑いが持て囃されて数年経つ。それを賛美する最後尾に着くつもりはない。ただ、想像力が逞しいが故に笑えないことが多くあり、同じような人々が増えてきているだろう。笑えないということに対して怒ろうとは思わないが、ドン引きした時の、攻撃されたような後味の悪さだけは特筆しておきたい。

 

 もう今年も終わる(ここから話題を変える)。今年は何もなかったと毎年のように言っている。何もなかったと何かあるの間、もしくはその差になんの意味もない。過ぎたことをすべてなかったことに感じるか、あったことのように感じるか、その差に過ぎない。俺は忘却力が高いためか、圧倒的前者で、今年に何が起きたかもよく思い出せない。記憶の中の距離感も掴めないため、今年誰が死んだのか、誰が結婚して誰が逮捕されたのかもあまり定かではない。周りでは誰も死ななかったし、周りも一人しか結婚しなかったし、誰も逮捕されなかった。そういう意味では本当に何もない年だったのかもしれない。周り以前に、周りのことばかりを考えてしまうのは自分に何も起きなかったことの表れなのだが。

 せめて、今年は何かが起きていたという錯覚に陥りたい。クリスマスに雪でも降ればいい。年末に趣のある事があれば、一週間くらいは錯覚に浸れる。問題は東京のクリスマスに雪など降らないことだが、稀なことは稀だからこそ希少価値があるのであって、雪国の人はクリスマスに雪など降ってもつまらなそうに明日のスコップの温度を心配するだけだろう。今年に何かがあったという錯覚のため、全ての(そして僅かな)希望をクリスマスに雪が降るに全額賭ける。外れたら今年は何もない。元々、何もないことに希望なんて必要ないだけだ。