反日常系

日常派

煙草と本

 煙草ばかりばかすかと吸っている。一時間経つ事に楔を打つように灰皿に煙草の火を押し付け、ふーと息を吐く。鼻が詰まっていて煙も何も感じられない。いつもの煙草がコンビニになかった為、タール値の高い煙草を買ってしまった。吸えば飲み物が欲しくなって自販機に行く。行ってる最中からクラクラと来てしまい、家の近くの自販機でしゃがみこんでチビチビとエナドリを飲む。服は何日も着替えてないスウェット。こんな大人に誰がした。ヤニクラが治まるのを待つ。自販機横のゴミ箱に空き缶を捨ててから、いそいそと家に帰った。

 何が楽しくてこんなものを吸っているんだろうと思うが、きっと、何も楽しくない日常の中で天啓や意欲との待ち合わせとして吸っているのだろう。日常は長い。何もしていないとより長い。何も思いつかない日は女も死体も出てこない小説のように退屈で、冗長で、息苦しい。意欲からくる行動はそれ自体がストーリーになる。ストーリーのない日はただ同じ描写がコピーアンドペーストされているようで死にたくなる。煙草は、吸っていると行動を全て一部保留にできる良さがある。今は煙草を吸っているから何も出来ない、と、全ての怠惰に言い訳が出来る。今は何かを待っている時間なんだと思いながら許される五分間、至福の時間である。

 

 本を読む。もう読了したものをもう一度目で追って確認していると言った方が的確か。今では電子書籍派だが、物としての格好良さといったら断然で紙の本である(そもそも電子書籍は電子なので物ですらないのだが)。指でページを捲るという所作、本を読み始めた頃はその所作が好きで本を読んでいたと言っても過言ではない。親指を数センチ右に動かすだけというのはあまりにも味気ない。子供の頃は読んでいて格好いいと思われる本を選び、読んでいた。朝の読書の時間、休み時間、その時間に見せれる最大のファッションアイテムのようなものだった。ニーチェやらドストエフスキーを朝の読書の時間にカバーもつけずに読んでいた自分を未だに恥ずかしいと思うことはない。可愛らしいとは思っている。そういう、ファッション感覚で文化に接する人は批判の対象にされることが多いように思う。問題なのはファッション感覚で止まってしまい、深く掘ることや深く理解しようとすることをやめてしまうことである。入門の理由やモチベーションにファッション感覚を用いるのは悪いことではない、と思いたい。そんなことを考えながら、煙草を吸って本を読んでいる。他の理由もあるが、一つの理由は格好付けだ。