反日常系

日常派

日記日記雑記雑記

 選挙の期日前投票に行く。テレビでは理由も言わずに選挙に行きましょうと言われ、当日には選挙特番が競馬さながらのリアルタイム感でアナウンサーが熱狂するであろう選挙。選挙には応援とその結果のスポーツ的な感情しか持っていないので、さしたる信念もなく、勝ちそうな人にベットするか、負けそうで好感が持てる人にベットするかのどちらかを気分のルーレットに乗せて、出た目によって投票することを決めた(そして今書いてる時点でさえどちらだったかを思い出せない)。

 選挙とは、個人的辞書を引けば、異口同音にという意味でさえある。多数派がメンヘラじみた確認行為をしているとしか思えないし、そうでない選挙は異教徒が少数派であることを(これもまた)確認しているだけで、後者の自己満足的なオーガズムには参加しがたく思う。自我がいい歳をこいて確立していないので、どこにもホームを感じない。セクシャルマイノリティ重視の政策を政党が用意していても、そうなればいいとは思うけれども、投票する決め手にはなり得ない。政治に透明性があろうと自分が自主的に政治の動きを見るかと言ったら見ないので、どうでもいいと思う。

 死にたい夜が来たために、コーヒーを飲んだ。最近はあまり死にたいと思わなくなってきていたので、久しぶりゆえに死にたいという感情を愛おしく思う。眠れずに死にたいまま、午前二時を過ぎて、何も考えずに眠りたい。もちろん辛いことは辛い。けれど、今の気持ちが朝になれば消えてしまうという無常がとても儚くて辛い。今日したことといえば病院に行っただけなのだけれど、往復二時間ともなると体力が持たない。そうでなくとも今日起きて口をついて出た言葉は「死にたい」だった。そういう、何もしてはいけない日というのが存在する。そういう時に動かねばならないことはとても厳しい。

 本当は、昔俺の人生に確実に存在していたけれども今はいない人について綴ろうと思っていたのだが、このメンタルでやっても、自己弁護と他人を使った感傷的自傷行為にしかならないだろうからやめた。

 死にたいというのは案外何にもないということだ。死にたい。だからこれでこの章は以上。

 

 美しい女は何を言おうと美しいので大変だろうなと思う。美しい男も程度は落ちるだろうけれどもそうだろう。美しい人々はダーティーさを追う。文学しかりポップス音楽しかり、ダーティーさはずっと醜男の物だ。決して手に入らないものを追おうとするのは人間の根底原理であるようで、汚い話題なり口調を身につけた美しい人々が喋る度に微笑ましく思う。汚さを身につけても品がない美しい人々。ダーティーさとは醜さがドレスコードなので、美しい人々は返って品がなく思える。

 美しい人々が品のないことをする度に、自分の庭で肥料にもならない小便をされた気分になる。若いと自己憐憫の為の堕落がとても素晴らしく思える。俺もまだそう思ってさえいる。

 

 軽薄さの裏側を見せられると嫌になる。軽薄さに純粋な軽さが求められるような時代は終わったのだろうか。一周まわって原点に帰られるより、原点から動いてないような馬鹿が好きだ。馬鹿にできるので。

 何をかっこいいと思うか、から、何に依存するかに至るまで、軽薄な人達はとても可愛く思う。一番格好悪いのは零コンマ七周くらいの人で、そこのダサさを考えると原点からびたとして動きたくなく思う。