反日常系

日常派

女医の親切なサディズム

 精神科に行く。もはや日常の一つになった被分析作業は、靴を脱ぎながら話す女医の脚を眺めすぎず、なるべく気取ってると思われない言葉を探すという地雷原を慎重に歩くような用心深さで行われる。「行われる」というより「行われ<ら>れる」とでも言うような(そんな言葉が存在しない可能性を考慮に入れている)、ディスイズノットマイビジネスさ、当事者感のなさで女医が行い、俺が行わられる分析――被分析――はもはや何一つ特筆に値しない日常会話に姿を変え、俺はその言葉の節々に眉を顰め、不愉快さを感じながら不愉快さを伝えないように耐え忍ぶ苦痛の時間となった。勿論、苦痛は表裏一体で快感ともなる。SMなんて言葉が出来る前から、神話の時代から人類が薄々勘づいてはいた真理。いい加減夏の前哨戦と言ったところの五月末、流石に黒ストッキングを脱ぎ、色気のないズボンに身を包んだ女医に不満を顕にしようか、敵意のオブラート抜き表現で「お前にぶち込んでやりたいよ」とでも言おうか、悩んでいる間に診察は終わった。その間に俺に二回、女医に一回の電話を挟みながら(女医は電話に出た。当たり前だが俺は出なかった)。

 精神病の一番厄介な所は、それが「回答不可」という形で、もしかしたら本人が最も求めている回答であるかもしれないという点だ。病人の「このままでいい」という意思はこの国の全ての福祉によって否定されている。福祉の甘美な金銭がその意志を強くさせているという可能性を残しながら。精神病という、多くの人が定型の狂い方に嵌る(病気とはそういうものだ。定型でなければそれは病理ではない。余談だが、俺は阿漕で闇金ウシジマくんみたいな顔をした医者に「あなたは病気ではないので治すことは出来ない。ただ性格として気が狂っているだけだ」と言われたことがある)、その簡単な異端は、簡単ながら、異端さ故にアイデンティティとなり得る。俺は健康になった時、空虚な、嵌るべき定型もない人間になるのではないかと恐れている。その、現代日本では許されないジレンマ(それはとてもモラトリアムに似ている)を女医は快楽の頂点にいるサディストの顔で俺に指摘し、説教をしてくる。それは風俗嬢に説教をする客によく似ている。つまりは、親切心から来る優越感は、ただのサディズムと言うことだ。それに不快感を隠しながら、不快の甘美なる響きを伝えたい気持ちになった。伝えれば気持ち悪いと思われることを知っていて、さらにそれが親切心サディズムに一番効果的な攻撃だと悟っているために。