反日常系

日常派

あの物語の主人公になりたい

 することがない。しなければならないことは数え切れないほどあるが、目下締切を持って対処せねば危機が迫るという形で自分の前に現れる物事はない。飯を食うのも義務感や慣性の力によるもので、美味いと思うものより食べやすいと思うものを食べる。本を読んだりアニメを観ようと思うが、そこに慣性はなく、だらだらと這いつくばるように目線が同じ行でじっとしている。

 懐かしいアニメソングを聴くと、サブスクの情報で二〇一〇年発売だとか書かれていて、単純に歳をとった事に思いを馳せる。ただただ愚かだが、昔は涼宮ハルヒ、またはそれに準ずる何かがどこかにいるのだと信じていた気がする。サンタクロースをいつまで信じていたか。そう考え、頭の中で独りごちる幾多の高校生のうちの一人の前に、自分が何者かであると知る由もないのに何者かであることだけは確定しているような美少女が現れているのだろうと考えていた。選ばれていないという意識が青春の(俺の青年時代に青春と呼ぶことが出来るなら、だが)BGMとして流れていた気がする。

 選ばれた人はいたのだろうか。今では学生時代頭の中で唾を吐きかけていた痛々しく声の大きいオタクグループが羨ましく思える。思えば彼らは選ばれてはいなかった。しかし、大きな声や視界に入れたくない痛々しさを選びとっていた。能動的に自分たちだけの世界を構築し、その殻の中に入っていった。俺は殻の中を想像しながら、殻に向けられる白い目線を気にして何も出来なかった。涼宮ハルヒを何百回もぶん殴ったような女子生徒が、涼宮ハルヒ的役割を自覚しながら演じ、キョンを縮めて太らせたような男子生徒がキョン的役割を自覚しながら演じていた文芸部。それはいつ見てもグロテスクなままごとに過ぎないが、共同体的ユートピアの中で演じるということは楽しいだろうなとは思う。

 厨二病とは、理想像を現実化するという行為に他ならない。今、そういう事が出来るだろうか。実際、理想とする二次元の像も、ディテールが粗くなってきた。アニメのキャラクターの性格や行動理念を正確に頭に思い浮かべることが出来ない(そのくせにキャラクターの胸の大きさは簡単に脳裏に映し出せる)。それに、多くの主人公より歳をとった。適切な時期に何もしなかった言い訳に「そうしようとしなかった」ではなく「そうすることはできなかった」を選ぶ癖がついた。

 今日、『人間失格』を辿るような生涯を送る夢を見た。いい夢だった。今はまだ、どこかで大庭葉蔵、それに準ずる何かが存在すると思える。歳をとるということは、事実は小説よりも奇なりなどではないと悟り続けることなのかもしれない。現実は可能性よりずっとつまらないのかもしれない。しかし、それを悟りきれていないのか、大庭葉蔵のような人生を歩めたらいいと思った。後悔しないためには、厨二病にならなくてはならない。理想像を現実化しようと痛々しくならなくてはならない。そうすることができ、そうしようとしたという成功体験が欲しい。演じるという、つまらない再現でも、それなりに楽しいという結果を得たい。