反日常系

日常派

誰かのせいにして溢れたい

 ベースの弦交換、PU交換、弦高、オクターブ等の調整に、お世話になっているギターショップ(リペアショップも兼ねている)に赴いた。朗らかにいろんな話をして、ぼーっと待っていた。ここはちょくちょく利用させてもらっていた。去年、違うところにリペアを頼んだら二週間でPUセレクターが壊れ、さらには断線しかけになってしまい、それからギター等の修理は浮気しないでここに通おうと思ったのだった。去年頼んだところは酷かった。「二週間経っているからそちらの責任では?」「送料と修理代金いただければ直しますけど」といった感じ(要約ですがね)。それじゃ普通の修理だろうが。往復六千円もかけてわざわざてめえに頼むかよ馬鹿野郎。とブチギレたいのを堪えて、メールを既読無視した。

 今回は弦交換がうまくいかなかったとのこと。ペグの穴が細すぎて弦を切ってしまったという。それもベースの四弦をだから凄まじい。ぼくはこういう些細なことに異様にストレスを感じる人間なので、てめえ弦交換もできねえならもう辞めちまえと思うが、それはにこやかに「じゃあぼくが近くの楽器店に行って弦買ってきますよ。待っててください」と言った後だった。自分の怒りが正当なものか全然判断がつかない。だからすぐに運とか恵まれない星に生まれただけとかで自分を宥めすかせる。ギターの修理も専門的な職人がやっているわけではないのかもしれない。ぼくが期待しすぎただけなのだ。そういうこともある。でも、なんでそういうこともあるが何回もぼくのところでやってくるんだろう。道ゆく人々に肩をぶつけ続けられている気分。一人一人は一回だが、ぼくだけ何回もぶつかられている。こういう不幸にぶつかっていることが自分を貶す一因になる。怒れない自分。かと言って人を困らせたいわけではない自分。平和的解決は自分が唾を飲み込むことだと生来と大人に媚び諂う必要性のある実家で学んだことが活きてるのかはわからないが、こうやって生きてる。サウンドハウスで買えば四千円の弦を電車に乗って往来してまで六千円で買った。ベースの弦は高い。元々六千円もかからない修理費が倍にもなったのかとバレないようにため息をついた後ヘラヘラ笑った。

 飲み込んだ唾が溢れそうだ。良いことなんて探しても無い。ぼくは怒るのが上手くない。不満を表すのも上手くない。そういうのが上手だなと思う人は、自分の怒りが正当なものかを判断でき、怒りのゲージがマックスになった時ではなく、怒りのゲージを一番溜めた相手に怒る。手首でも切ろうかな。お酒でも飲もうかな。オーバードーズしようかな。いろんなことを思う。「そんな些細な問題で」と思うかも知れないが、ぼくの自傷行為は立派でないにしろ一種の抗議活動だ。誰の耳に届かなくとも、「誰かのせいでぼくは傷ついている。誰かに加害されている」と大声で叫びたい時なのだ。やはり、ぼくは下手くそなんだな。怒りのゲージが超えた時に行動に出る。些細な一滴が飲み込んだ唾を溜めたコップに波紋を起こし、溢れる。溢れるようにして崩れてしまうぼく。ぼくは下手くそだ。今、ちょっとやそっとで駄目になってしまう。誰にも失望されたくない。だからぼくのことは放って置いてくささないで、孤独死して腐って臭くなりたい気分。誰も加害者にはしたくないし、人と会って万が一ぼくが怒ったら、それはその人が悪いのではないし、一滴だけしか悪くないだろう。ぼく対すべてみたいな現実に思える。ストレスがすべて悪意のある行動に由来している錯覚に陥る。

 結局、ベースの弦交換、調整代金はおまけしてもらって、PU交換代金だけ払ったが、失ったものの金額ばっかり考えている。無駄になった弦四千三百七十八円、新しい弦六千二百七十円、修理代金三千三百円。新しい弦の値段引くおまけしてもらった金額を計算しては落ち込む。落ち込むために電卓アプリを開いたのだけれど。まあ、労力に見合った金額を得られなかったギターショップのことを考えると怒るに怒れない。精算の時、ありがとうございますとヘラヘラした自分が嫌いだ。ずっと家や学校で幅をきかせているやつに、そうでもない他人に、悪い印象を持たれないかだけしか考えてない。金銭は少しの損失も問題で、息ができないような感覚に陥る。生活の見通しを立てる能力がないからすぐに不安になる。眼鏡をかけても頭の視力は良くはならない。一寸先は闇の視界で生活を探っていくしかない。やたら面倒だ。世界がこれ以上加害しないことを願うけれど、人々はこれが加害だとも気付かずに肩をぶつけ続ける。もう疲れて歩くのをやめて人気のないところで寝転びたい。そして人間が生きていくために作った社会というシステムから転がり落ち、誰もいない森で一動物として死にたい。空想だ。やけに疲れたから変な感情ばっか芽生える。どうせ忘れるから、今だけは飲み込んだ唾をゲロに変えないように頑張る。