保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

近況報告

 正直な話、色んな人に「どうやって生きているの?」と聞かれるが、偏に言えば福祉に身を預かって貰っている。障害者福祉等様々なサポートを受けてようやく生きるだけの生活を維持させていただいている。これを幸いと見るか、一般の平均以下の生活を哀れんで見るかは人によって異なると思うが、ぼくは前者で考えている。しかし、ぼくは福祉によって生かされているという思いかあるので、常に希死念慮と福祉の風向きの変化に殺されるのではないかと思ってしまう。断罪しようと思えば断罪できる身の上だと自負している。正義によって叩きのめされても文句は言えないと思っている。ここ二年半、こうして生きれているのは福祉のおかげなので、死ぬまでの時間を延ばしてくれただけでも感謝である。

 意味もなく書き続けたブログだが、少しでも金になればという思いで(というのは冗談だが。人のあまり見ない所に文章を移したいという思いが以前からあった。ブログの文庫本化サービスだと三冊にも及ぶらしく、なくなく断念したことがあった。十万円程金がかかるということで、その面でもなかなか厳しかった)、半年ごとに区切ってnoteに投稿して数百円の小銭を稼ぎたいと思う。買う人がいるのか甚だ疑問だが、人の鍵付きの引き出しを漁りたいような人々が興味を持ってくれるのではないか。恥をより鮮明に加筆していきたいと思う。

 最近、何かを残したいという思いが強い。人は死にかけると子種を残そうと勃起するという。ぼくに精子はもうないので、子種を残そうとする動きの一つなのかなと思う。三月中にバンドのアルバムを作り、noteにこのブログを移したい。このブログは記事をほとんど消して、半年溜まる事に加筆修正してnoteに移すという形に落ち着こうと思う。

 たぶんぼくは福祉によって殺されるだろうと思う。その後に実家に帰って殺されるだろうと思う。そのような妄想が消えない。ぼくより先に父親が死ねば実家で過ごしやすいだろうし、父親の死を願っている。泣き言や病状のことばかりを喋っては、何かにつけてぼくとの差異でぼくを詰るので、父親はぼくに似たなあと思う。手負いの獣のような表情は何も変わらず、実際に手負いの獣になった父親は生きることが不断の復讐かのように、マイナスの感情をばらまいている。ぼくはマイナスの感情をばらまくにしてもデコレーションでも花の一輪でも表現のきらめく瞬間でも添えてばらまけたら幸いだと思う。俯いた顔から覗く前髪越しの表情が、安心して眠る顔に似ているように文章を書く。音楽をやる。そしてそのまま寝ているように死ぬ。死ぬ死ぬ言うと詐欺だとか注意を引かんとする孤独で浅はかな表現に思えるが、そのような薄っぺらい考えしかできないのが病状だと思って頂きたい。それで多方差し支えない。