反日常系

日常派

普通の恋

 パパが恋をしてる。結婚は来年みたい。なんだか嬉しいけれど、ぼくはきっとその日なにもしていないだろうな。例えば式をしても、呼ばれる服もないし、渡す祝儀もないし、そもそも呼ばれる道理がない。なんと紹介されたらいいのだろう。若い少年に懐かれた? まあなににせよ、こういう時、ぼくがビョルン・アンドレセンやスタヴ・ストラスコのような美貌を持っていないことに安心する。いわば普通。特筆に値しない。この世の中には特筆に値しないことばかりだとジェイムス・ジョイスが『ダブリン市民』で身をもって証明したばっかり。

 もし新しいママに会うことが出来たなら、何をいえばいいのだろう。ぼくの語り尽くされたジョークで笑ってくれたならそれが最良なのかもしれない。新しいママはなんてぼくを思うだろうか。みすぼらしい青年?声の低い猫背の少女? まあ、なんにせよ普通でないのは残念ながら確かだ。普通とは説明が要らないもので、注釈をぶら下げるものは普通じゃないんだ。たなか凪、前妻(その時は結婚してたけど)と出会い系サイトで会った、パパと音楽の趣味が合い意気投合、今に至る? たなか凪、アセクシャルノンセクシャル、女性ホルモンを打ってる、Xジェンダー。たなか凪、幼少期の環境のためにメンタルヘルスを悪くする。今までの病歴はうつ病性同一性障害躁うつ病統合失調症解離性障害。『なんとなく、クリスタル』じゃないんだから、注釈のない人間に生まれたかった。

 こんな解釈まみれの人間が愛されるわけが無い。それこそが今の心配事なんだ。普通の恋はチョコレートもカッターナイフも必要としないうちになされていくことを知っている。パパに関しても不安だった。新しい恋人を見つけたらぼくなんか忘れてしまうのではないかと思っていた。でもそんなことはなく新しいママにぼくの話をしてくれたみたいだ。新しいママ=パパの恋人に言葉を変えた方がいいかもしれないな。パパの恋人は新しいママにはなりたかないかもしれないしね。でも好感は持ってくれてるらしい。どういう距離感だろうか? 来年新居に移ったら連絡をくれるってさ。サラダ皿の一番末席でナイフとフォークをガチャガチャ言わす馬鹿になる準備は出来てるんだけどな。呼んでよね。ちょっと遠目の約束はちゃんと忘れやすいところに置いておく。なんて当たり前でしょう? ぼくはそうしてなんとか身を守ってたんだ。できれば優しい人がいいなってだけの話しさ。涙が出そうなほど格好つけても優しくされたいだけなんだ。欲を出せばしょっちゅう行ったりしたいね。なにも遠慮を感じない人間になれた場合ね。どこまで家族でいいのだろうか。子供には大金で大人には有り触れた以下のようなお金を出して、ずうっと末席にいたりしたいね。夢ばかりが広がって、チクリと指すのはいつも胸だ。そんな上手くいくはずがないなんてことを二十四歳はまだわからないんだ。どんどん通り過ぎていくのだろう。恐ろしくて死にたい。ぼくは永遠を簡単に信仰する若者かもしれない。永遠の途中に永遠だった人が座り込んで、ここからじゃ何も見えない。永遠の孤独の中、下を向けば匿名性を持った汚れがコンクリートに染み付いて離れないみたい。

死にたい

 ぼくはいっつも死にたくなる。スーパーで余計なものを買うと死にたくなる。家賃の更新ができなくて死にたくなる。バス代が思ったより倍高くて死にたくなる。自分の病状が重くても軽くても死にたくなる。なんでこんなに死にたくなるんだろうと思う。誰も助けてくれないから、ぼくと裁判官だけの法廷で、リストカットを宣言されて、快でも不快でもない傷が左腕に増えて、「あーあ」と思う。さっさと死んでしまえばいいと思う。なんでこんなに死にたくなるんだろう。自分は生きるのには無能すぎる。運も悪い気がする。持って生まれた物全てが捨てるに値する物な気がする。死んだほうが、死んだほうがいい。

 友達と病気のその母親の話をしていると、羨ましくて死にたくなる。ぼくが代わりに死んであげるみたいな上から目線のヒロイズムなんてない。なにもわからなくていい。ぼくの人生からわかるのはただただこんな最低な、羞恥や自分の低脳具合だけだ。ドーナツも過量のドラッグもいらねえよ。ぼくの人生には死の直前に飾り付けるものもない。生きている最中だって。悲鳴にも似た嗚咽が出た。暑さに負けてしゃがみこんだ。割高な自動販売機の水を購入する。汗は玉のようにポロポロと流れる。俺の方が泣きたいよ。ふざけんじゃねえよ。殺してくれよ。俺をぶっ殺してくれよ。跡を濁しても、誰も知らなくてもいい、カメラ1がずっと俺の目の前を映してんだよ。視界があるから他者への比較だって簡単になるんだよ。ぶっ殺してくれよ。もうこれは人に対する愛嬌なんかじゃねえよ。ぶっ殺してくれって言って助けてもらうようなそういうプロレスなんかじゃねえよ。俺を屠れよ。脚をもいで骨と分離させろ。削げ! 首だって辞めるためにこんな構造になってると言うのに、みんな感謝してやがる。俺がキレてるのはなんで俺がこんなに無能かだけだよ。無能かそうじゃないかは能力によって決まるもんじゃないんだよ。人が固有の能力や特定の人を愛せるかどうかなんだよ。愛されなかったら何も意味はないんだよ。人は技能で延々と笑いあってるだけだ。愛されたいだけだ。遠いところまで転がるように考えてもぼくはやはり死にたいです。

眠れない夜

 この出来事を何から語ればいいのかわからない。それは午前四時になっても眠れないで起きているせいで言葉がバラバラでうまくくっつかないようだ。たしか当たり前のように酒と薬を飲んだ。

 今日は人からよく連絡が来る日で、羽川さんだったり森くんだったりからよく連絡が来た。出会い系サイトの女たちは会話に飽き始めていて、特段ぼくから話しかけるでもなかった。

 今日は朝からずっと雨が降っていて、そのせいで心が沈み込むんだ。本当に落ちこんでしまったぼくは朝っぱらからレモンサワーを飲み、酒の味など好きではないにもかかわらず一杯また一杯と飲んでしまっていた。それでも憂鬱がかき消されないために溜めておいたロラゼパムを飲むことにした。10錠、効果が持たず4錠追加と繰り返しているうちにつまらなくなった。みんながどうせどっか行ってしまうのじゃないかなんてありきたりな不安がぼくを襲った。

 まずは実母にラインを送った。薬でほぼ内容が時間列順になっておらず、内容としては「お母さん、許さねえけどありがとう。お疲れ様」みたいな内容を書いた。なんとなくこれを書く前に羽川さんのお母さんの病状を聞いたので、かしこまってまった。母にとって携帯に夜中に連絡が来ることなど珍しいため、狼狽して、警察署にまで連絡をしてしまった。正直実母にはラインや感謝の言葉など必要ないのではないかと思った。分かり合えてるというわけではなく、増長しやすく、過去の虐待をなかったことにするので、いい話では終わらせたくないとの気持ちがある。

 そしてパパ(パパと言ってもパパ活ではない。擬似家族的なパパなのだ)にラインを送った。恋愛結婚をするらしい。羨ましい。羨ましくて、怖いのは、僕なんが必要じゃなくなることだ。二人の世界が出来たら、僕は子供じゃいられなくなっちゃうだろうか。知り合いの振りをできるだろうか。つらすぎる。パパはパパで、新しいママはママであって欲しいな。でもさ、来年結婚するとして、僕はその中に入れるのかな。当たり前だけれど入れないよね。夫婦の層が厚くなって、ぼくなんかぽんと弾き飛ばされちゃうに違いないんだ。不安なんだ。一年後の約束は遠いから早いうちに会いたいな。仲良くなれたらいいな。すっごい難しいことは百も承知で、家族になりたい。子供になりたい

 

退院

 退院した。生活の些事に振り回され、そのせいで日常の中に戻ったように感覚する。生活をうまく操っていかなければならないのに、生活はなかなか手に負えない。生活する能力の不足を障害と呼ぶのだろう。入院前は記憶がないことが多く、自分が推測出来ないほど普段の生活と違う生活をしていたようで、記憶がない一月前の支払いに追われたりして、単純に不便だ。

 障害者年金の更新の診断書を書くための紙が送られてきた。今年はどうだろうなあと思う。病状の悪化でしか時間の経過を認知できないのではないかという気がしている。二年前は躁鬱だった。今はなんなのだろう。解離性障害と言われているが、健忘くらいしか合っていない気がする。あまり病名を気にしないでと言われているが、病名がわからないと、今やっているゲームがなんなのかを理解していないみたいな、どだい攻略のできない何かを相手させられているようだ。退院時にもらった診療情報提供書をこっそり見たら、「自殺企図」と書かれていた。入院時は(通院先の病院に書いてもらった)「解離性障害疑い、躁鬱病」だった気がする。何にせよ、病名がないとこの世の中に許されていない気がして不安になってしまう。自殺企図は病名ではない。ただ自殺しようとしている人間、それがぼくなら、自殺の最中、もしくは成し遂げた後しか、自己実現はないのではないか。そう考えていると、病名でしか自分を定義できない卑小さが目について嫌になった。嫌になってばっかりだ。

 午後のコンクリートは野良猫の肉球を焦がす悪意を持ち、ぼくは日が暮れてから外に出ようと待ち構えている。助かるためにはどうしたらいいかを考えているのに、助けてもらうことしか考えが及ばなくて馬鹿みたいだ。一人だとそんなことばかり考えている。自分を糾弾する人間と過ごすのはつらい。それが自分だからどうしようもない。

出たり入ったり

 明日退院です。まあ、もうそんなことを書こうにも飽きるくらい出たり入ったりしてるし、精神科は退院することが全治ではない。治るんじゃなくて治まった程度。何も言いたいことはなくなって、それからまた不平不満を口にするくらい調子が悪くなっていくんだろうなと、退院に対し明るい見通しもなく、繰り返しの毎日がまた現れるだろうことだけがわかる。もう繰り返したくないとまた思った時に、また死にかけてまた繰り返しのように病院に入るんだろうなと思う。

 入院にも慣れたから、語るべく言葉もなく、ほぼ日常の中にある障害者たちを眺めてる。弟が障害者なので、ある程度の障害者には慣れている。わざわざ発見して言葉にするほどの感情の動きもない。特に言いたいこともないし、ぼくの脳みそは雪に足跡を消されてくみたいに、来た道程を忘れてしまうので、調子の悪い時の「なぜ」「どうして」が全く推測できず、全く違う人間のように思える。

 とりあえず今は何もしたくない。ほぼ白痴のように、見た物が通り過ぎていくのを何一つ知覚せずに受け止めていたい。思うに、人はものを思いすぎる。何かを見て、暗喩のように感じられる度にぼくは少しずつ疲れていく。人々が褪せるようにやつれていくように見えるのはぼくの周辺だけなのか。生活は当たり前のくせに、行うには意識を排すことが出来ず難しすぎる。他の人にとっての生活は意識せずに息をすることと同じなのかもしれないけれど、ぼくにとっては綱渡りみたいに息を呑んで行うものだから、やたら疲れる。

 通院して、薬を飲んで、ぼうっとしてるとまた通院になってるみたいな、無意識で息ができる体調に戻りたい。生きることを意識すると、不自然になって、何も意識することがない死が羨ましく思える。

 何にせよ、退院することを話したかったんだった……。こうも入退院を繰り返していると、どうせまたと予期して、染み付いた冷笑で人が遠ざかるのに冷笑をやめれない。人への期待の表れの愛嬌も下手になって、夜な夜な嫌いな女の顔を思い出して苛立ったあと、人全体への言いがかりのような嫌悪で顔が歪む。どんどん穿った目付きになって、卑小な笑いばかりするようになるだろうなと、暗い見通しばかりつく。人に好かれるには期待をしていなきゃいけないけど、なかなか難しい。何一つ考えるにはいっぱいいっぱいで、平常とも言えない。またこういうことを書き連ねる気しかしないので、ここら辺でやめておきます。せめて前向きに祈ることができたらいいのに。