反日常系

日常派

ただのたったの二十三歳の終わりの日

 何を語ろうか。何も考えつかない。大きな文をまとめる力がわかない。たぶん睡眠薬とか気分とか気圧とか、いろいろのせいだと思う。いろいろのせいにして、今日をなんとか死にたくても生き延びた。

 もういいや。台風で世界は終わっちまうらしい。こんな文章書くのもやめちまおう。愛や音楽や言葉は何も救わないし、救うほどの力もない。救いたいわけではない。救われたいのだ。子供の頃から、文章を書くのが上手かった。上手かったというより、文体のディテールを察して真似するのがうまかった。将来の夢は小説家でした。今はなんの夢だろう。ミュージシャン?

 ぼくは今までで一番心を許していた人(擬似家族の元ママ)に「たなかが楽しそうにしているのがむかつく。お前のせいで死んでやろうか」みたいなことを言われたことがある。「お前は死んだ方がいい」だったかな。忘れた。そしてその人とは距離を置いた。もういいや。でもずっとぼくが楽しそうにする度にあの人がぼくを見てる気がして怖くなる。許されたいから自傷オーバードーズをして不幸に戻ってきたくなる。だから夢を持ちたくない。叶えようとするということは人が羨むことばかりだろうから。でも、やりたいことはあるんだ。だから脳内のむかつくアマに中指を立ててやる。f:id:freak_tanatra:20191010210956j:image人差し指も立ててしまったな。楽しいから。ごめんなさい。楽しくて、ほくはあなたのせいで死にたい日がよくありますけれど、それでも楽しいです。タトゥーを入れました。可愛いでしょう。

 ぼくと仲良かった人と、また仲悪くなって、もう仲直らないだろうなあ。あきらめた。ぼくが悪いというか、人間性として多分ぼくが仲良かった人に比べて幼すぎる。人を馬鹿すぎてムカつかせてしまうのと同じだ。このブログの熱心な読者でもあったな。今はもう読んでるのかもわからないや。もうこのブログもやめてしまおうか。

 明日は誕生日です。友達が一人祝ってくれます。バーにいきます。なんだか全てが最後のような気分です。ただ二十三が終わるだけなんだけど、なんか自爆スイッチ押して笑ってるやつみたいな気分です。何もしていないのにね。明日池袋のバーに来てくれる人いたら嬉しいです。あとほしい物リストから誕生日ブレゼント買って欲しいです。

 

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二人組作って

 特に理由もなく死にたくなる。人の一挙手一投足に怯えて、窮鼠でもないのに噛み付くように追い詰められて、逆ギレに至る短絡的思考以外を見つけられない。それでも人に嫌われたくない一心で動いているつもりだが、おそらく人に伝わりようがないんだろうなということは自分でもよくわかる。酒の力を借りて人に愛を伝えても、少し引かれて終わりになる。

 心が弱まって、出会い系の女の人の家に行った。歯ブラシが何本も立っているキッチンで歯を磨く。女の人から借りた男物の服のポケットに手を突っ込むと破られたコンドームの袋があって、当たり前だけれど人に性欲があるということに嫌気がさした。その家の犬はぼくにとてもよく懐いた。犬のいる部屋でもセックスするのかなと思った。やけにそれが喜劇的に思える。たなかさんに恋人いるんですか?と聞かれ、恋人はたぶん一生出来ないんじゃないかなあと言った。わざわざ性欲がないとか性嫌悪があるとかは言わなかった。それからベッドで寝て、起こすのも悪いなと思って午前十二時にひっそり服を着替えて外に出た。

 セックス。セックスの存在がぼくの人生の困難さを高めてる。誰ともセックスしたくないし、できない。みんなが何を思ってセックスするのかがわからない。まあ、みんながセックスする相手を探している間、ぼくは馬鹿みたいに呆けているわけで、学校で二人組作るのの延長で二人組になれずにそれでもなんとかなるのを待ってる。先生みたいな存在が「仕方ないから先生と組もうか」と言って目立つ独りぼっちから脱却できないかなと思ってる。みんな急に二人組を作って、ぼくじゃない人と仲良くしてんだなあと思う。頼むから傷つけるのなら忘れてくださいと自分から頼んで周りたい気分になる。おそらく傷つけるなんて上等なものでもなくて、ただ消えるように忘れ去られていく。独りは目立つと思ってるのはぼくだけで、みんなは恋人を見るので精一杯だ。みんなからぼくが消えていくだけ。

日記

 ぼくは何回このブログに日記という題で日記を書くんだろう。

 また咳止め薬を飲んだ。いい加減こんなことはやめた方がいいと、もう誰にも言われなくなっているので、身体が自戒を込めて吐き気を催している。周りの人にとっても同じことの繰り返しだし、周りは周りで暮らしがある。何も心配されたくて薬や酒を飲んでいるのではない。いや、それもあるかもしれないが、それよりも自分の気分に手を焼いているというのが理由だ。夜から逃げるために薬や酒を飲み、重い頭を引きずって朝を迎える。どうやら、ぼくは調子が良くないほうが性に合うようである。文章も安定している時は書こうという気にならないし、この文章も、咳止め薬特有の手の震えと吐き気から注意をそらそうという意図で書いている。ほぼ痙攣で、無意識に画面をタッチしている。もう、身体が持たなくなるほうが早いかもしれない。精神薬も咳止めも初めのように効くのを楽しむというより、自分を追いつめるような効きに、効きすぎになっている。人の同情を引くのも回数を重ねると狼少年の様相を呈してくる。もうこんなことはやめたい。死にたいのか健康になりたいのか、どっちだと聞かれたら健康になりたいと即答できる。人の注意を引かないで済むのなら、引かないに越したことはないのだ。不健康で気を引こうという、その行為自体が不健康だ。呆れた人間から順番に、ぼくの手の届く範囲から零れていく。関わってくれる人には、よくもこんな人間と関わっていてくれるものだと思う。ありがたい。

 履きなれた靴が長年の雨で色褪せて、踵にいつつけたかもわからない血の染みがついてる。アクエリアスを買おうと外に出た。自販機に小銭を入れる手が震えた。しょぼいジャンキーの素振りも飽きてきて、そのくせ、もう身についてしまって辞めることができない。薬を飲んでも眠れないくらいに咳止め薬が効いているのがわかる。この夜をやり過ごさなければならない。終わってみればなんも思い出せないのに、終わるのがやたら長い夜の中を溺れている。毎回毎回、同じような夜の中、溺れると水の反射で全てのものが毎回違うように歪む。水の中から写生することで、一生正しいように描写することができないということを繰り返している。直視すること、それがものを書くことに一番必要なのに、気分に手を焼いていつも逃げ出してしまう。来月には二十四になる。今日は太宰治の映画を観て、その映画の出来とは関係なく太宰治について思いを馳せた。二十三は太宰治が魚服記を書いた歳であった。二十四はそれの発表。破滅的とはいえ、その破滅が作品に結実すれば、その破滅は許される。これは持論ではなく世論のようである。要に、人は看護師ではなく、観客になりたいのだ。ぼくも、芸ができるのであれば、それをしたいのだ。ぼくには恋というものがよくわからないけれど、人を看護師にしてはならないというのは案外恋の作法なのかもしれない。そう思うと、ぼくには恋人はいらないという結論に至る。看護師がいて、安心したいだけなのだ。恋の危なさはぼくが演じるには向いていない。病人の危なさなら得意なのに。死とエロチシズムを近いところに置く人もいるけれど、ぼくは不能なのでただの死である。エロチシズムは攻撃性と奉仕の側面があって、そのどちらもぼくは苦手だ。与えられるだけ与えられていたい。利己的にすぎる考えだ。

 友達の森は恋人ができて、とても調子が良さそうだ。長年の付き合いで、恋人がいたりいなかったりしていたのだが、森に恋人ができる度にぼくは自分のことでもないのに誰に誇るでもなく誇らしくなる。当たり前だ、あいつはとても良い奴なんだ。そう言いたくてたまらなくなる。こんな吐き気にのたうち回る気力もない夜は、以前、酒を飲みすぎた時に森が口に指を突っ込んで吐かしてくれたことを思い出す。人間は恋以外に人を一番近しいところに繋ぎ止める手段を未だに発明しないようである。だからぼくもいい加減、恋愛を身につけなければいけない。与えられるだけの赤子から成長して、取引を覚えなければならない。

実家

 やっぱり親は苦手だ。実家に帰ってから、父親は友好的な雰囲気を醸し出し、「一時停戦とでもいこうじゃないか」とでも言いたくなるような顔で執拗にぼくを追いかけ回し、話を聞いてやれば、やれ薬の数がどうだやれ病状がどうだと自分の話ばかりで辟易としてしまった。父親は障害者年金を受給したいとぼくに相談してきたのだが、父親の医者は障害者年金の受給は無理だと言っているらしく、医者がそう言うならそうだろ以外の感想はなかったが、ぼくの経験から障害者年金を受給するにはどうしたらいいかの最適解を教えてやった。にも関わらず、父親は自己中心的で自分のことしか見えていないようで、暇つぶしとしてぼくに「なぜ精神疾患を罹患したか」を聞き出すことに執心し、ぼくが気を使って「この家庭がとても苦手だったので」という答えを出さずにお茶を濁すと、「特に辛いことはなかったのに病気になった」と勝手に答えを出し、「お前はいつも悲劇のヒロインぶるよな」「お前が俺の環境にいたら一日で逃げ出すだろうな。俺は十五年頑張ったけど」と得意げな顔をするのでストレスで体が震えた。

 死んでほしい。実家の人々を久々に見るとそういったマイナスの気持ちを抱く。父親は聞いてもないのに様々なことを語り出し、語尾に必ず「(お前と違って大変だからな)」と言ってるように感じる。叔母の婚約者が獄中で自殺してたらしい。そんなこと知るか。でも、そういう血のところでカスなことを知ると、自分に流れる血は変えようがないから絶対だめな運命なのかなって思う。父親は「俺の方が大変だ」という話しかしないし、母親も「私の方が大変だ」という話しかしない。これが実家なんだと帰る度に思う。帰る度にもう二度と帰るかと思う。なんで毎回帰るのかわからない。おそらく親がぼくを育てる際、支配的に育てすぎたためにぼくは半ば被支配的にしか生きられなくなっているんだろうなと思う。

 父親は自分が一番辛いと考えることも公言することもはばからないような人間なので、周囲の人間に自分の辛さでマウントを取る事に余念が無い。人に気を使わせることに躊躇がない。父親はずーっと自分の辛さを語り続け、「お前のせいでストレスがかかる」と言い、「俺は病気なんだからストレスかけるようなことをするなよ」と言ってきた。俺はお前よりも病状が重いんだが? お前よりも俺の方が障害者だが? とぶん殴りたくなったが、ぐっと堪えた。論理が通じるような相手ではない。俺は病気だから人に気を使え、と、今まで全くぼくに気を使っていない人間が言ってるのが笑えた。いや、全く笑えなかった。精神病を笑い、新たな虐げる理由にしていただろと思い出すと、泣きながら笑うみたいな、感情の行き場のない虚脱で力が入らなくなった。いくら弱くなろうがまたそれを理由にぶん殴ってくるようなやつだったのだ。マウントを取り、自分のために行動するように仕向けるためだけに生きるようなやつだったのだ。忘れていた。急にすべてが無理になって東京に帰った。母親に父親のことで愚痴を言っていたのに、それが理由で帰るかもしれないと言っていたのに、帰ることを伝えたラインに「台風で停電してるもんね😆」と帰ってきた。ぼくが何を言っても、何が不服でもなかったことにされる。そもそも父親にも母親にも「この家庭がいいものではなかったので精神病に罹患した」とは言っていたんだった。答えが両親の望むものでなかったなら何回だって聞き直される。都合のいい耳と都合のいい脳が羨ましい。人を支配することに罪悪感のない人間が羨ましい。毒のある家庭では、人種差別みたいに生まれた瞬間に支配層と被支配層が決まる。それはもう生まれてしまったら変えることができない。

どこかの海へ

 薬を飲みすぎて記憶をなくした。気づいたら実家に居て、髪の毛は安物のシャンプーできしきしになっていた。いい加減潮時みたいな毎日で、最期みたいな諦めが来たら穏やかになってしまう。

 父親は一回り太っていて、もともとの猫背が肉で強調されて不格好になっていた。薬の種類や量でマウントを取られるたびにむかつく。ぼくのほうが病人だと思う自意識で、何とか生き延びている。父親が「もう俺の病気は治らないって言われたよ」と自嘲していた。当たり前だ。精神病は治るって言わない。寛解と言うんだ。ぼくは病人も板についてきたから、病人初心者に教えてやる。絶望もやりつくした後に、諦めをやりつくさなきゃいけなくなるんだ。そのあとは何になるかなんて知らない。ぼくは通ってきた道を懐かしむけれど、その道を行く人には本当に少しの興味もわかない。

 父親は病人特有の仲間意識でぼくに話しかけるけれど、ぼくとしては虐められてきた記憶があるから全然迎合できない。「俺も仕事できなくなったよ」と言われても。「こいつ二年前ぼくを無理やり働きに出させたよな」と思ってしまう。二年前、働いて店長を殴って土下座して謝って薬を大量に飲んで剃刀で手を切って帰りの電車で寝過ごした。思い出せばむかつくことばかりだ。まあいいや。病人であることに慣れること、それしか穏やかになる術はないと思う。病院に行ったら気違いがいること。自分もその列に並ぶこと。不安になって自分を傷つけて、鏡を見たら気違いでしかないこと。

 毎日誰もいないリビングにクーラーをつけて、どこにいても弟の小便の臭いのするカーペットに横たわっている。今日は涼しくて、クーラーのない自分の部屋にいる。週間予報だと、もう一週間の視野に夏は現れないようだ。海を見たい。秋が来るたびに死んだふりをして、夏になるたびに起き上がる海を見たい。しみったれた地元の海は、メメクラゲに刺されるにはうってつけの海だけど、もう少し余所行きの海を見たい。色気づいた女の子が初恋の終わりを知るみたいな、そんな海を見たい。

 ツイッターでぼんやり、エモいと言われるような、男女がすれ違うだけの漫画を読んで、すれ違う相手もいないくせに感情を持て余したくなって海を想像してしまった。終わった青春の、命日を決めにどこかの海へ行きたい。殺した青春の骨を撒いて諦めた後、いったいどこへ行けばいいのだろうか。青春への期待を終えて、歳を取り始めなきゃいけないのにな。どこへ行くにも足がすくむ。海へ行かない限り、どこかの海はどこかのままで、想像にいるぶん現実をあざ笑ってくる。想像を肉眼で見てがっかりしたいというのに。