反日常系

日常派

たぶん今日に数多く書かれた自殺の文字のうちの一つ

 入院している。退院してもどうせ生きたい生きたくないに関わらず生きれるかわからないし、出来ることならずっと入院していたい。入院してから病室の外に出ることすら少ない。病院の外には遺失届を出しに行ったことしかない。

 ツイッターでは遠くの誰かが飛び降り自殺したことを知らされて、遠くの誰かが死ぬ瞬間を見て、落ち込んでしまった。彼女とぼくにはなんの接点もないけれど、彼女とぼくの違いなんかを考えてみたりして、それすら感傷のズリネタにしてるようで嫌になる。誰かが死のうと思っている。それを知らされた時、何をするのが正解なのだろうか。スマホで撮影するのか、顰めた眉で目を背けてしまうのか、誰かが撮影した動画で悲しくなってしまうのか。答えはなく、不正解だけが不謹慎や道徳の名の元に転がっている。ぼくはここ数年、ツイッターで死んだメンヘラの名前を覚えて、たまに検索してみる。徐々に忘れ去られて、言及したツイートの数が少なくなって行くのを見ている。死んでも何も残さない。そう思っていたのかもしれないけれど、それをまた感傷に擦り付けては傷を悪化させる。

 ぼくは視野半径二時間の脳みそで、三時間後の気分や気持ちは推測できないというようなアップダウンの激しい人間だ。だから、死なないでくれと言った三時間後にはぼくが死んでいるかもしれない。だから死なないでほしいとは誰に向かっても言えない。だけれど、死んでしまった人も半径二時間の脳みそで、三時間眠ってれば死ななかったのかもしれないなんて思ってみると、それだけで辛くなる。共感なんて役に立たない。終わってしまえば多くの人の感傷がそれぞれの解釈の共感で、一時的に傷をつけるだけ。

 遠くの誰かが電車を止めたり、飛び降りたりして、それに迷惑をこうむった人が愚痴を言って。ぼくは幸い、話す友人が数人いるけれど、ぼくは悲しくも社会とは繋がっていない。社会はぼくの目には黒く渦巻くよくわからない物で、恐ろしくしか見えない。もしかしたら優しいのかもしれない。けれど、ぼくは一歩踏み出すことが出来ないからずっと足踏みをしてる。黒く渦巻くよくわからない物に一矢報いることでしか関係が築けない気がしてる。命を使って、片道燃料でぶつかって死ぬしかない気がしてる。一歩踏み出して、落ちて、死んでも何も残さないことは優しい。道徳や不謹慎が守ってくれている。なんて気分になってしまった。ウェルテル効果(自殺のニュースで自殺者が増えるという効果)の午後に、共感で出来た傷で死なないように、ぼくは今日も布団を被り、できる限り感傷から遠くへ逃げ出せはしないかと願いをかける。

 死んだ人は何歳だったのだろうか。何が好きだったのだろうか。ただ、わからないということだけが都合よく形を変えて頭の中を廻る。ぼくはだんだん子供たちが何を考えて死にたいのか、何を思って死ぬのかが掴めなくなっている。「学校辞めればいいじゃん」「あと2年耐えればいいじゃん」なんて、なんの意味もない解決策をしたり顔で言う大人になり始めてる。きっと、そんな解決策より、なによりも大切なのは何の役にも立たない共感なのかもしれない。それすらできない大人になり始めてる。眠っている最中にも、少しずつ。