反日常系

日常派

悲鳴の説明

 入院ばっかりして、暇にも慣れると安定して、安定にも慣れると不安定になる。安定は欲望を忘れることなのか、それとも欲望を持ち続けていられることなのか。どちらにしろ安定は色んな欲望を呼び起こして、ぼくを不安にさせる。ちゃんと生きれるかどうかなんて、不安定な時期には議題にすら上がらない。ただ、生理的にも近いただの不快感と、酒や市販薬や処方薬の酩酊が繰り返される。その後に何もなくなってただただ鬱を感情のない空洞に放り込む(これはほとんど生理的不快感に似ている。鬱を感受の範疇で感じて何事かと精査するにはぼくの感受はくたびれすぎているから)。たまに何もなくても済む時間があって、それはただ単に感覚を忘れているだけなんだろう。綱渡りみたいにギリギリで生活しているから、すぐに生活が不安になる。生きていくのが不安だから、さっさと死んでしまいたくなる。生きていきたいから、色んな生活の些事が出来ないことにダメージを受ける。なのにそのダメージを食らうくらいならと死にたくなる。

 彼女とも別れたし、死ぬなら今なんだけどなあ。誰も自分のことで手一杯。ちょっと小さな葬式があって、忙しさで流す涙もないだろう。少しだけ周りの人が悔やんで(くれると嬉しいけど)、明日のことを考えて、明日になればもうどこにもぼくのいた気配はなくなるだろう。

 死にたくはないけど、生きるのはとても難しい。世の中は馬鹿に厳しいし、その馬鹿とは成績のことではなくて生活を行う知恵がない者で、ぼくはその馬鹿のうちの一人だし。馬鹿に救いの手を差し伸べようとする人はいない。歩けないことを意欲の問題にされても、二本の足が萎えているのに誰も気がつかない。生きていることは常に苦痛で、死ぬことは安楽に思える。苦痛のない道を選びたい。他者には苦痛のない生を選びとることが正解だと言う者もいるだろうけれど、ぼくの感受性の範疇でそれを見出すことはないだろう。二十四年も生きてればわかる。しかし、もう一つわかったことがあるのは、死ぬことはとても困難で恐ろしいということ。

 どうやって生きるか。どう生に色眼鏡をかけて生きるか。そんな哲学的なくせに実務的な、それでいて感覚の世界の話を二十四にもなって、徒手空拳で挑んでいる。簡単に生を肯定するなら感覚の世界に身を置いたらいいのかもしれない。快楽とか快感に身を委ねて、それ自体の高揚感で人生を間違って認識していけるかもしれない。しかし、ぼくに溺れるほどの快楽を得られる術はないし、行動力もない。野良猫がもらわれて大人しくなるように、安心で人生を肯定したい。些事から一抜けして、与えられたこなせる目の前のことをこなすだけで生活が成り立つなら……というより、人の所有になることで責任を人におっ被せたい。ぼくはそういう欲求ばかりある。自分の中にある、人に投げたいのに行き場を失った愛を、誰かに当てつけみたいにぶん投げて処理したい。誰かは誰でも良くはなく、空想を重ねては聖母や聖人にアップグレードした『誰か』。そんな人はいないと思うのに、人と関わることの少なさが期待に調子をこかせて、ぼくはゴドーを待つみたいに待ちぼうけている。

 長々と悲しいと言い続ける理由は、悲鳴の美しさで、遠吠えの凛々しさで、誰かぼくを救ってくれないかという一縷の望み、というよりもはや空想の種の為にわざわざ書いている。誰かの心に響いたのなら、それはそれで嬉しい。誰かの空洞を打楽器のように鳴らせたらそれはそれの範疇で嬉しい。どうせ助かるなんて思ってもないんだから。