保育所

言葉なんて子を捨てる親と保育所のやりとり

日常のそれ自体の感覚的な不快

 何も考えていない。何か考えるとすれば何も考えたくないということだけで、息をするだけの消極的な生きる姿勢が猫背になって背筋を伸ばせなくなってく。梅雨になって窓から見える景色が灰色の雲に覆われて、雨音が激しければ自分とは関係ないのになぜかうれしい気持ちになって、それでもやはり自分とは関係ないので何もせずに日々が過ぎていく。

 死にたいのは何もしないこととは関係ない。ほぼ理由なんかない。ただ生活していると息をすることや飯を食うことに生理的嫌悪感が拭えなくなって、吐き気にも似たネガティブな感覚に支配されるだけだ。それは理由というには感覚的すぎる。こういう静物画みたいなブログを書くことは何回目だろうか。そもそも日常とその内側を描く人々にとって、静物画以上の何かを描きとることはできないのではないか。日常は面白くもなく、ただ人々を疲弊させていく。人々とは主語を大きく出したものだ。疲弊しているのはぼくとわずかな人々だけかもしれない。

 自分との距離感がつかめず、感覚的な不快に追いやられてアルコールと安定剤のちゃんぽんをして感覚の息を殺す。感覚だから、自分がなんでそんなことをするのかほとんどわからない。気付いたら薬の殻と空き瓶にまみれて、部屋の汚さを退廃とでも言おうか、とぼくの大嫌いな「退廃」という言葉を出して自嘲する。ただぐずぐずと意思もなく退廃「してしまった」。退廃とはそれを自分で持ち出す以上は退廃していこうという意思が必要だと思うが、ぼくの生活は核戦争後に人々が原始的生活を始めるみたいに、意思ではなく大きな流れに流されただけのただの「結果」だ。

 タバコでも吸って、吸い殻を灰皿に並べようか。酒の空き瓶を重ねてみようか。そんな、数が増えていくのを目にして、少しでも時間の経過と関わっていこうかとふと思う。まあ、貧困ゆえにそんなことはできないけれど。誰か白痴に日付を耳打ちするみたいに、少しの優しさと日常を照らすような知恵のたいまつを授けてくれ。感覚に吐き気を催して、崩れてしまうぼくを崩れたままで助けてくれ。立ち上がってはまた転ぶのはわかっている。もう立ち上がりたいという気持はわずかにしかない。崩れたままを許してくれるような優しさに触れて、許されながら生きていたい。ほぼ甘えだが、甘えだということはわかっている。恥ずかしげもなく言えば甘え以外の生き方はもう飽き飽きした。嘔吐の後の酸っぱい臭いは嗅ぎなれた。頼むよ。