どこで何かを間違ったかではない、どこかで何かを間違ってしまったという確信が、僕の人生を間違ったものにしてしまった。
明日また、入院することになった。ODをし、救急搬送され、警察署まで行き、警察に「お前は筋トレをしろ」と小一時間説教されたのが親に伝わった。父親は前回の閉鎖病棟入院の時に、最長の期間まで入れろと言ってきたし、家族の総意としてぼくには病院に入っていて欲しいのだろう。
かといって、特に反対する意思も理由もなかった。ここ最近、考えてみれば手首を切り、酒量も増え、薬があればODをしていた。考えてみれば入院に値する。人生とはなんの意味があるのだろう。意味を考えることは無意味に対して厳しくなることだが、人生は考えれば考えるほど荒涼とした無意味だった。生きる意味などないと悟りの皮を被った諦めを得たぼくは、無意味を会得しようとした。薬を飲み、酒を飲み、できるだけ考える主体から遠ざかろうとした。その行為が何かをもたらしたかと言うと……もたらさなかったこと自体が意味だったと思う他ない。何事も興味を持つことが出来ない。薬と酒に溺れるのはそれは興味が必要ないからだ。感覚さえあればいい。セックスだってそうだろう。感覚には言葉を必要としない。ぼくは明日感覚から遠く離れた場所へ行く。精神科は感覚に不寛容な場所だ。ルールによっては連絡も取れないかもしれないので、先にこの文章を書いているところだ。
最近、ぼくは病名についてよく考える。うつ病、躁うつ病、統合失調症、解離性障害……ぼくが得てきた病名たちだが、それらがぼくを説明するものだとは全く思えない。躁うつ病がやや近いくらいだろうか? ともかく、言葉によって説明された一般人との違いのせいで、明日は保護室に1人きりになるかもしれない。うまく行けば人並みの病室だが……。解離性障害ならば面白いかもしれないとは思うけれど、解離性障害はぼくの病状を表すのに最も遠い言葉のうちの一つであるように思えてならない。駄文にお付き合い頂きありがとうございます。明日、人並みの病室を与えられること、任意入院で入院できること、その二つのことを祈っていただけたなら幸いです。では。