反日常系

日常派

退院

 退院した。生活の些事に振り回され、そのせいで日常の中に戻ったように感覚する。生活をうまく操っていかなければならないのに、生活はなかなか手に負えない。生活する能力の不足を障害と呼ぶのだろう。入院前は記憶がないことが多く、自分が推測出来ないほど普段の生活と違う生活をしていたようで、記憶がない一月前の支払いに追われたりして、単純に不便だ。

 障害者年金の更新の診断書を書くための紙が送られてきた。今年はどうだろうなあと思う。病状の悪化でしか時間の経過を認知できないのではないかという気がしている。二年前は躁鬱だった。今はなんなのだろう。解離性障害と言われているが、健忘くらいしか合っていない気がする。あまり病名を気にしないでと言われているが、病名がわからないと、今やっているゲームがなんなのかを理解していないみたいな、どだい攻略のできない何かを相手させられているようだ。退院時にもらった診療情報提供書をこっそり見たら、「自殺企図」と書かれていた。入院時は(通院先の病院に書いてもらった)「解離性障害疑い、躁鬱病」だった気がする。何にせよ、病名がないとこの世の中に許されていない気がして不安になってしまう。自殺企図は病名ではない。ただ自殺しようとしている人間、それがぼくなら、自殺の最中、もしくは成し遂げた後しか、自己実現はないのではないか。そう考えていると、病名でしか自分を定義できない卑小さが目について嫌になった。嫌になってばっかりだ。

 午後のコンクリートは野良猫の肉球を焦がす悪意を持ち、ぼくは日が暮れてから外に出ようと待ち構えている。助かるためにはどうしたらいいかを考えているのに、助けてもらうことしか考えが及ばなくて馬鹿みたいだ。一人だとそんなことばかり考えている。自分を糾弾する人間と過ごすのはつらい。それが自分だからどうしようもない。

出たり入ったり

 明日退院です。まあ、もうそんなことを書こうにも飽きるくらい出たり入ったりしてるし、精神科は退院することが全治ではない。治るんじゃなくて治まった程度。何も言いたいことはなくなって、それからまた不平不満を口にするくらい調子が悪くなっていくんだろうなと、退院に対し明るい見通しもなく、繰り返しの毎日がまた現れるだろうことだけがわかる。もう繰り返したくないとまた思った時に、また死にかけてまた繰り返しのように病院に入るんだろうなと思う。

 入院にも慣れたから、語るべく言葉もなく、ほぼ日常の中にある障害者たちを眺めてる。弟が障害者なので、ある程度の障害者には慣れている。わざわざ発見して言葉にするほどの感情の動きもない。特に言いたいこともないし、ぼくの脳みそは雪に足跡を消されてくみたいに、来た道程を忘れてしまうので、調子の悪い時の「なぜ」「どうして」が全く推測できず、全く違う人間のように思える。

 とりあえず今は何もしたくない。ほぼ白痴のように、見た物が通り過ぎていくのを何一つ知覚せずに受け止めていたい。思うに、人はものを思いすぎる。何かを見て、暗喩のように感じられる度にぼくは少しずつ疲れていく。人々が褪せるようにやつれていくように見えるのはぼくの周辺だけなのか。生活は当たり前のくせに、行うには意識を排すことが出来ず難しすぎる。他の人にとっての生活は意識せずに息をすることと同じなのかもしれないけれど、ぼくにとっては綱渡りみたいに息を呑んで行うものだから、やたら疲れる。

 通院して、薬を飲んで、ぼうっとしてるとまた通院になってるみたいな、無意識で息ができる体調に戻りたい。生きることを意識すると、不自然になって、何も意識することがない死が羨ましく思える。

 何にせよ、退院することを話したかったんだった……。こうも入退院を繰り返していると、どうせまたと予期して、染み付いた冷笑で人が遠ざかるのに冷笑をやめれない。人への期待の表れの愛嬌も下手になって、夜な夜な嫌いな女の顔を思い出して苛立ったあと、人全体への言いがかりのような嫌悪で顔が歪む。どんどん穿った目付きになって、卑小な笑いばかりするようになるだろうなと、暗い見通しばかりつく。人に好かれるには期待をしていなきゃいけないけど、なかなか難しい。何一つ考えるにはいっぱいいっぱいで、平常とも言えない。またこういうことを書き連ねる気しかしないので、ここら辺でやめておきます。せめて前向きに祈ることができたらいいのに。

明後日入院の予定です

 今日、入院先の病院が昨日言ったように、直接通院先の病院に行き、紹介状を書いてもらった。「今から伺っても良いですか?」と入院先の病院に聞くと「土日の入院はやっていません」と言われ、今日一日が無駄になった。入院先の事務に聞くと、「先日もそう言ったと記録(手記)に残っているのですが……」と言われる。昨日何回も確認したが、今日が入院の予定だった。それが今では病床の調整すらついていないと言う。精神科の病院ではこういうことがよく起きる。客は気ちがいだし、何を言っても恐らく上司は部下の肩を持つだろう。看護師もそういうところがあるし、病院内は録画録音が禁止だからなんでも言える。現に看護師が病人に「死ぬなら外で死んでくれ」と言っていたのを見たことがある。「出してくれ」と訴える患者に、看護師が「そういうことを言っているうちは外に出せませんよ」と笑う光景もよく見た。ぼくはもう去勢されきってしまったというか、呆れてしまったので何も言うまいと「わかりました。病床の調整がついたら連絡をください」と言って電話を切ったが、金曜に警察から連絡が来て、入院の書類を書くために片道数時間をかけた母親からすると面白くない。母親は電話をかけ直して電話越しに怒っていた。ぼくはそれを眺めていた。母親から怒り方を学んでいるようでもあった。しかし、その怒りによって自分の立場が悪くなることも同時にわかっていた。やり返そうと思えば何でもやり返せる人間たちなのだ。最長三ヶ月のはずが半年以上、病棟から外出許可もなく幽閉された老人を見たことがある。大人しくさせる注射も、動けなくさせる拘束器具も、なんでもあるのだ。昔は鉄の檻だってあったのだ。

 数時間経ち、電話が折り返しかかってきた。「病床の調整がつきました。月曜日の午後一時半に来てください……それと……」ファックスされた紹介状に最近の酒量が増えたことが書いてあったらしく、今日からの禁酒を言い渡された。「お酒を飲まれていた場合、ベッドが変わってきますので……」ベッドが変わってきますのでと聞いて、思わず笑ってしまった。ベッドは二種類しかない。保護室か一般病室か、だ。部屋という意味なら、部屋は保護室、準保護室、有料個室(ここから一般の部屋となる)、四人部屋しかない。四人部屋は個室にお金を払わない、一番まともとされる人間が放り込まれる部屋なので、この「ベッドが変わってきますからね」という言葉には「なにもない保護室に放り込むことも可能ですよ」という意味が含まれている。というよりそれしか含まれていない。やっぱりぼくはどこまで行っても単なる一気ちがいでしかないのだ。ぼくは何も言わないことがぼくにできる唯一の気のちがっていないことだとわかっているので、「ありがとうございます。迷惑をかけました」と言った。

 その後、母と飯を食べた。父親の病状について聞くと、悪化の一途を辿っているらしい。ヒステリー性転感は医学的に解明されていないことも多いらしく、治る見込みはないだろうことも何となく察していた。父親はストレスに弱くなり、仕事場でぶっ倒れ、頭から血を流したこともあり、仕事場から「来ないでくれ」と言われたらしい。障害者手帳や年金を貰おうにも、解明されていない病気や、一応仕事に籍を残してあることで、福祉が有利に働くことは難しいそうだ。今では家で洗濯物を干すだけの、しかもそれがやっとという有り様の爺になっているらしい。元から炊事など出来るような人間ではなかったし、母親を揶揄することしかしていない人間だったのだ。今、たなか家は弟の障害者年金と母親のパートでなんとか生き延びているらしい。弟は障害者施設に毎日朝から夕方まで預けられている。父親がもう弟を見れないからだ。障害者施設はなかなか夜も見てもらえる枠が空くことがないため(老人ホームとは違い、障害者は若いときから死ぬときまでの長い間を看るので)、昼間見てもらうことは、全日の枠の予約にもなっている。しかし、全日を見てもらうということは障害者年金が家庭ではなく施設に渡ると言うことを意味しているらしく、たなか家の見通しは暗い。

 一瞬、「家に帰ろうか」という言葉が喉まででかかったが、二十数年間犬猿の仲だった父親とうまくいくはずがないと思い、言葉を飲み込んだ。今は言えないだろうが、ぼくの躁鬱がひどかったときに無理矢理働きに出された経験もある(初日で店長を殴りクビにされた)。気ちがいが三人集まっても母親の苦労が増えるだけだろう。父親は抗うつ薬のせいか、十キロ以上太り、今ではかつての面影は見ることはできないらしい。そのような父親を見る勇気がなかった。「死ね」と言われたこともある。大学進学の前に家のお金を使い込まれたこともある。「金を出したくない」と大学を辞めさせられたこともある。そんな父親が殴れば死ぬような、ただの爺になっているということを受け入れられなかった。恨み続けることができなくなりそうで怖かった。歩くこともたどたどしい老人を見て、「ぶっ殺す」と思えなかったら自分の人生の数割が消えてなくなりそうだった。自分の人生の数割は「ぶっ殺す」で出来ていた。巨悪は死ぬまで巨悪だと思っていた。いつまでもぶん殴ってもぴんぴんしていると思っていた。親と仲悪い人には警句のように「ぶん殴るなら今だぞ」と言っておきたい。恨むことがじゃれつくように軽く済むうちに。殴っても殴り返されるうちに殴っておかないと、何もできなくなる。無力さが人懐っこく、弱さゆえの優しさに、降伏になっていくだろう。そんな犬の腹を、掲げた白旗を見ていると、自分の人生の数割が行き場を失い腐っていくだろう。冷酷を決めかねているうちに、冷酷を必要としない復讐は出来なくなっていくのだろう。

明日入院の予定です。

 どこで何かを間違ったかではない、どこかで何かを間違ってしまったという確信が、僕の人生を間違ったものにしてしまった。

 明日また、入院することになった。ODをし、救急搬送され、警察署まで行き、警察に「お前は筋トレをしろ」と小一時間説教されたのが親に伝わった。父親は前回の閉鎖病棟入院の時に、最長の期間まで入れろと言ってきたし、家族の総意としてぼくには病院に入っていて欲しいのだろう。

 かといって、特に反対する意思も理由もなかった。ここ最近、考えてみれば手首を切り、酒量も増え、薬があればODをしていた。考えてみれば入院に値する。人生とはなんの意味があるのだろう。意味を考えることは無意味に対して厳しくなることだが、人生は考えれば考えるほど荒涼とした無意味だった。生きる意味などないと悟りの皮を被った諦めを得たぼくは、無意味を会得しようとした。薬を飲み、酒を飲み、できるだけ考える主体から遠ざかろうとした。その行為が何かをもたらしたかと言うと……もたらさなかったこと自体が意味だったと思う他ない。何事も興味を持つことが出来ない。薬と酒に溺れるのはそれは興味が必要ないからだ。感覚さえあればいい。セックスだってそうだろう。感覚には言葉を必要としない。ぼくは明日感覚から遠く離れた場所へ行く。精神科は感覚に不寛容な場所だ。ルールによっては連絡も取れないかもしれないので、先にこの文章を書いているところだ。

 最近、ぼくは病名についてよく考える。うつ病躁うつ病統合失調症解離性障害……ぼくが得てきた病名たちだが、それらがぼくを説明するものだとは全く思えない。躁うつ病がやや近いくらいだろうか? ともかく、言葉によって説明された一般人との違いのせいで、明日は保護室に1人きりになるかもしれない。うまく行けば人並みの病室だが……。解離性障害ならば面白いかもしれないとは思うけれど、解離性障害はぼくの病状を表すのに最も遠い言葉のうちの一つであるように思えてならない。駄文にお付き合い頂きありがとうございます。明日、人並みの病室を与えられること、任意入院で入院できること、その二つのことを祈っていただけたなら幸いです。では。

日記

 ウットの後遺症で体が異様に重い。ここ最近ではODばかりしている。先週金曜日から土日はロラゼパムとブロンを決めて、一昨日はロラゼパムに酔ってどこかへ徘徊していた。昨日はウットとクエチアピンを酒で流し込んだ。何が楽しいのだろう。さっさと死にたい。記憶がない。渡るのは薬の空き袋の数だけ。

 昨日救急車に乗った。もはや乗り慣れてしまった車内で、色々なことを聞かれた。でもぼくは閉鎖病棟に入るか否かしか興味がなかった。入っても入らなくてもどっちでも同じだった。ぼくはもう、正直なところ、人生に興味が持てなくなっている。生きていたって手に入れられるものはたかが知れてる。死んだってつまらない。人生は自分が行く道を行くまでの時間だなあと思う。自分の興味を持っている範囲に飽きたらおしまい。警察と少しお話しした。うつ病は筋トレをすれば治ると長い間熱弁されたが、権力にむかってへらへらしただけだった。

 バンドをやってもドラマーがいない。文章で自分を助けるなんて希望はもうとうに捨てた。自分の声や演奏や文章が恥ずかしいだけ。『祐介』で曲を書かないメンバーは楽だ。自分のせいじゃないからみたいな文章があったのを思い出す。ぼくは人の曲いじるの苦手だし、一人で十分ではないけど、言いたいことは分かる。

 ギターに希望はない。ブログに希望はない。それでもやっぱり社会は怖い。助けて欲しい。首を吊るしかないだろうか。

 何も考えない自我が欲しい。人格が欲しい。人格に任せてあとはずーっと空想の部屋で何も入り込まないようにしていたい。

 

 何もしていない。いや、何も出来ないが正しいか。ただただ時間が過ぎていく。どうせ良くも悪くもなりやしないのだ。人生に輝きがない。興味を認めるほどの輝きが。