反日常系

日常派

書き物が時間に干渉する世界

 春の陽気のせいで、氷たちは氷たちであったものたちに変質してしまい、氷たちであったものたちはコーヒーやお茶をコーヒーであったものたちやお茶であったものたちに変えてしまった。

「ねえ、どう思う?」

 私があなたに話しかけると、あなたはぶっきらぼう

「また小説の話? そんなの彼に聞いてみればいいじゃないか!」

と叫んだので嫌になってしまった。ここには二人しかいないというのに、あなたにはそういう屁理屈以下の妄言とも取れることを放言する癖がある。

「彼って誰よ」

「三人称単数、うーん、つまりはぼくでも君でもない、そして男性である個体のことだな」

「ねえ、『無神論』」

無神論』は急に話しかけられたために口ごもってしまった。

あなた「そんなしみったれたやつに話しかけるのはよせよ」

「そんな言い方はないんじゃない? それもト書きまで使って」

あなた「うるさい!」

 ト書きで喋られたので、私は宥める気力をすっかり無くしてしまった。あなたと出会ったのは私が六歳の頃だった。十年前。どのようにして出会ったのか、そして、六歳まではどのようにして過ごしていたのか、全く覚えていないが、幼少期というのは凡そそういうものだと相場が決まっている。六歳以降、幼馴染のような、命の恩人のような気がしてずっとくっついている。物心ついた頃から私とあなたは交際していて、そのことにさしたる疑問も持っていない。恐らく六歳の頃に何かしら大きな出来事があったのだろう。

 そんな無駄なことを考えていると、私の小説の中のかつてコーヒーであったものは、かつて氷であったもののせいで、かつてコーヒーであったものというよりかは、今からコーヒーになろうというものまで退行したかのようだ。お茶も同じく、薄まりきって、お茶ともお茶であったものとも言い難い薄さだ。

「ねえ、あなたのせいで私の小説の中のかつてコーヒーであったものとかつてお茶だったものがほとんど水になってしまってるんだけど」

「あなたのせい? 私のせいだろ? 君が無駄に回想なんか挟むから氷がかつて氷であったものに変わるんだ。そういう小説を書くなよ。耐用年数が短くなるだろ。氷なんか入れなきゃいいんだよ」

「つまり、あなたは私の小説の中のコーヒーが薄くても一向に構わないってわけね!」

あなた「ああ、そうさ」

 毅然とした態度で言い放った。それはわかりきっていることを答える優等生のようであったが、私にはいつものあなたにしか見えなかった。

「やめてよ。ねえ! ト書きやら神の視点やらで煙に巻くのはあなたの良くないくせよ」

「そうだな。改めるよ。じゃあ、昔の作品がどうなっているか見てみればいいじゃないか」

 

 私は彼に習って『風の歌を聴け』を開いてみた。老年の鼠がぬるくて気の抜けたビールに関するジョークを言っていた。

「だろ?」

 あなたは私の肩越しに『風の歌を聴け』を見て、言い放った。いつからこんなに険悪になり始めてしまったんだろう。

「そもそもだよ? そもそも君の小説には柔軟さと圧倒的強度が足りないんだよ」

「そもそもなんて持ち出すなら、この小説自体に強度がない気がするけれど?」

なんだと?!

「ほれ見なさい。作者が顔を出していいことなんてないのよ」

ということは君はこう言いたいわけだな? 作者が顔を出していいことなんてない、と!

「だからそう言ってるじゃないこのまぬけ!」

 そういうと、『無神論』はまぬけという言葉が自分に向けられたのだと思って、「くぅーん」と悲しげに短く高い鳴き声を漏らした。

 そうすると『闘争』や『希求』がその声を聞きつけてやってきた。『無神論』が攻撃されたのだと勘違いしたのだ。

『闘争』「お前か? 私っていうのは」

「そうだけれど、ト書きの時くらいは二重カギ括弧外した方がいいわよ。みっともない」

『闘争』「おお、そうか。ありがとう」

 そう言うと『闘争』は闘争になった。というより「かつて『闘争』であった概念」と呼んだ方がいいだろう。二重カギ括弧を外したことで、『闘争』固有の全てのものが霧散し、消えてしまったのだ。

『希求』「てめえ!」

「そんなつもりはなかったの。本当よ」

 さっきまで怯えていた『無神論』は『闘争』が「かつて『闘争』であった概念」になった場所をぼんやりと眺めていたが、そのうち『闘争』が「かつて『闘争』であった概念」になった場所に歩き寄り、残り香を嗅いだ。そのうち、なぜ自分がそんなことをしているのかを忘れてしまい、自分の尻尾を追いかけてくるくる回る遊びに夢中になった。

『希求』「大声を出してごめんよ。なんで怒ってたんだっけ」

「わからないけれど、さして大切な物事でもなかったのよ。きっとね」

ぼくは覚えているがね。君は『闘争』を「かつて『闘争』であった概念」に変えてしまったんだ。そのために彼は死んでしまった。

『希求』「てめえ!」

 すべてではなく、覚えていることも少ないながら、なんとなく義務感に駆られて『希求』は叫んだ。

「そんなつもりはなかったの。本当よ」

 さっきまで怯えていた『無神論』は『闘争』が「かつて『闘争』であった概念」になった場所をぼんやりと眺めていたが、そのうち『闘争』が「かつて『闘争』であった概念」になった場所の匂いを嗅いだ。そうしていると、なぜ自分がそんなことをしているのかを忘れてしまい、自分の尻尾を追いかけてくるくる回る遊びに夢中になった。

「さっきと同じじゃないのよ! このまぬけ! 『無神論』!」

ぼくを『無神論』だなんて言ったな! 後悔させてやる!

『希求』はインカムで精神科医に私の拘束許可を取った。精神科医は西棟三階に急いで駆け上がり、許可の紙を書いた。

『希求』「ここは精神科病棟だったの?」

「いえ、私の部屋だったはず。やめてくれない? さっき罵倒されたからと言って作品を無理にねじ曲げるのは」

 精神科医と看護師は五、六人がかりにして私をベッドの柵にくくりつけた。

どうだい?

「最低の気分ね」

そいつはよかった。君はずっとこのままでいるのさ。

 『希求』は作者のあまりの横暴さに口をあんぐりさせていた。私は不安になって探したけれど、どこにもあなたの姿が見つからない。そうしていると急に。

作者は首を切って死んでしまった。あまりの速さに、そばにいた精神科医が拍手をしたくらいだった。一太刀で首の半分を切り、血が吹き出して死んでしまった。

 一部始終を繋がれたまま見ていると、あなたがどこからともなくやってきた。

「間に合ったか」

「遅い。なにしてたのよ」

「なにしてたって、見ればわかるだろ。新しく小説を書き足してたんだよ。」

作者の筋肉が痙攣して、ぴくぴくと動いた。

「ねえ、こういうのってあまり趣味がいいとは言えないと思うけど?」

「こうする他なかったんだ」

「私はどうするのよ。拘束されたままじゃない! このままじゃ衰弱して死ぬわよ!」

あなた「ちょっと待ってて」

 そういうとあなたはどこかへ消えてしまった。

時間が十年ほど巻き戻った。

 なんだかなん十年もたったような、とけいのながいはりが3から5までうごいただけみたいな、きもちがした。

 そうすると、おとこのこがこっちにむかってあるいてきた。

「もううごけるでしょ。あそぼ」

 おとこのこがなにをいってるのかわからないけれど、からだはうごかせた。へんなひもをうでとあしからはずすと、なんだかうれしくなっておとこのこにだきついた。おとこのこがわたしをたすけてくれたのだろう。

「ねえ、なまえなんていうの?」

「あなた」

「へんななまえー」

「きみのなまえは『私』おぼえておくんだよ」

「はーい。私、あなたのこいびとでいいわよね」

「もちろん!」

 

二人の知らないところで、二人を知らないぼくはいつか傑作を書くのだと息巻いていた。