反日常系

日常派

明日退院

 戻るために入っているのに、戻るために出ていく気持ちにもなって、病院に「お邪魔します」になってから一ヶ月、「ただいま」を経て、「いってきます」なんて言おうとしてる。そこはぼくの家ではない。帰りたい場所なんてない。実母に名前を変えたと連絡を入れた。

「そうなんだ。父ちゃんもなんだか疲れてるみたいで、田中家は母ちゃん以外全員精神病だよ〜😣 母ちゃんも精神病かな〜」

 やはり、合わない。一挙手一投足がぼくを傷つける。血の繋がりが大したものだと思えたことはない。むしろ、血の繋がりが大したものだと思える人々に困らされている。ミシェル・ウエルベックは、父性というものは存在しないと言っていた。母性だってそうだ。種の意志はあっても、個の意志はない。種を守るための性欲だけがあって、性欲にまとわりつく大いなる排泄物(人間)に、個としての特別な感情は用意されていなかった。簡単に人間全体を拗ねた目で見てしまうけれど、反例があるだけでぼくの説は正しく思える。切実にぼくは喉を嗄らして悲観的に物事を考える。

 明日退院か。明日、病院には「さようなら」を言わなければならない。なんだか、待ち遠しくもない。やりたいことはあるのに、見えるビジョンが酒と薬の生活。退廃という名のチープな陳腐に酔うほど馬鹿じゃない。いつもお茶をしている人とは、また会うことがあるだろうか。Facebookでは閉鎖病棟で仲良くなった人がスピリチュアルに目覚めていた。もっと、まともに。まともに再会をしたい。お茶を飲んで笑いたい。ぼくは最近なんだか人に飢えてる。まだ飢えてないのに、飢えを想像して胃が痙攣しているみたいだ。

 

 おそらくぼくは躁なんだと思う。躁鬱じゃなければ、行動的な別人格なんだと思う。ぼくはいつ死ぬんだろうと思う。そこまで深刻じゃなくても、いつまた入院するんだろうと思う。いつまた人生を中断するんだろう。いつまた人格が変わって記憶のない人生の数パーセントが終わってるんだろうと思う。怖い。ぼくが生きているという証が欲しい。イヤホンからは優しくもない音楽に喉を嗄らしている。いいなあ、と思った。早くしなければ、二十七で死ぬなんて大層なことは言わない。今年二十四にもなります。生きすぎたりや二十三と昔は言いました。太宰治芥川龍之介の死んだ年齢を気にしていた。そして越してから死んだ。加地等は太宰治を気にしつつ、そのちょっと後に死んだ。豊田道倫は「四十を過ぎてからの表現は四十を過ぎる前の表現と違う」と言っていた。どれになるだろう。ぼくはイアン・カーティスの歳になっている。生きた証が欲しくて、下手くそな作曲や作文をしています。LINEで人々を集めて土下座するつもりで演奏してもらおうと思います。それが腐っていくテレパシーズになるか、Bleachになるか、Unknown Pleasuresになるかはわからないですけれど、いいものを作れたらなと思います。自伝はすかしっ屁になってしまったから、今度は何か実のある表現になれば良いと思います。頑張ります。ずっと神聖かまってちゃんのデモを聴いています。こんなに熱を上げることがあるなら、外に出る意義も少しはあるのかな。高熱に見る幻覚みたいな現実が、悪夢みたいにぼくを覚めさせるところ。