反日常系

日常派

医者に断られる

 朝っぱらから電話。片っ端から予約を取ろうとしていた精神科から患者が多くて受け持てないとの返答を受け取る。次をあたれ。その返答から想像しなくていいことを想像して、なにか他の理由があるのではないかと勘繰る。どうして、症状があるというのに病院にかかれないのだろうか。助けるのが仕事ではないのか。ではないのだろう。神に向かってなぜ助けないのかとその怠慢を訴えてみても、無碍に一蹴されるか蔑ろにされる、それにも似た悲しさを反芻することになる。向こうが救いたいものは救われる。救われたい救われたくないに関わらず。救われる人生はその当事者がその問題を解決する能力を有するかに関わらず、本人がなんとかできても救われるものだ。

 どうせ助からないという悲観は今のムードではない。次がある。そういった希望の糸をほぼ無限に垂らされて、たらい回しにできるだけされているという印象を受ける。まあ、袋小路で足が止まるか、足が完全に萎えてしまうまで、次をあたるしかない。

 自分の説明が悪いのだろうか、しかし、なぜ受診したいか、なぜ転院をするのかという問いには赤裸々にしか語ることができない。救おうという人にとっては救いやすいということが価値なのだが、俺は救われ難いということを語ることしか自分の病状を説明する術を持たない。そして返答。うちでは診れません。暗転――。

 ジョークとは常に最悪をそのままにしておきながら言い換えるものだが、なにか、一つでも気の利いたジョークさえ携えることができたら少しでも気が楽になるのにと思う。笑い飛ばす必要はない。他人に笑われるに値するくらいの最悪に落ち着きたい。せめて……。

写真なき近影

 出来事を一から説明するのが苦手だ。怒った時に気の利いた文句が思いつかないのも短所だ。月曜日、医者に行ったらこっぴどい態度で追い返される。そこから紹介してもらった病院に予約の電話を入れるも、受付のババアは話を聞いてんだか聞いてないんだか役割も果たせないような感じで、順調に俺の気持ちを逆撫でた。もちろんそこからも拒否される。あとは入院していた病院しかないが、にべもなく返答は先延ばし。バンドメンバーのさっちゃんを家に泊める予定があったが、疲弊で頬が持ち上がらず、笑顔がうまく作れないから予定をふいにしてしまった。せめてブログで医者を罵倒しようと思うも、どこがひどいと思い、どこが悲しかったかがうまく説明できないからやめた。気分の上下に振り回され、気分に終始する感情がほとほと嫌になる。

 その次の日はひどい偏頭痛で、何も手がつかなかった。

 そのまた次の日はアコースティックギターにピックアップをつけてもらう予定があったので、身体を引きずって外に出た。外に出たら気分が良くなり、無駄に店主と話などする。店を出たら近くのアート系の古本屋に行きたくなり、行く。こういう時は無駄なものを買ってしまうのが常。以前はミュシャ的な絵柄で裸が描写されている料理本を購入した覚えがある。必要のないものはなんで素晴らしいのだろうか。安くてエロい物を買う。エロと言っても単純に消費されるインスタントな物は置いていない堅物な棚だから、安心して裸を読み耽る。エレン・フォン・アンワースのRevengeを購入。性嫌悪だからか、逆に性の聖(きよ)さを信じている。信じるということはその事物の存在が曖昧であるということを認めるということだ。人とセックスしたときの罪悪感。それとは反対に単純に清清しい身体。裸は単純に美しいと思う。裸はタブーと思っているから惹かれているという幼い心も引きずっているだろう。裸はそれぞれ採点式の美醜はあれど、どれも美しいと思う。古本屋の写真集の棚からデザイン系の棚に移る。人間の体を使った宣伝デザインを集めた本(だと思う。異国の言葉で書かれているから意図を読み取ることしか出来ない)を立ち読みし、内容が女性の引き締まった身体や官能的な身体から、中年男性の不健康な身体に移るのを眺めた。なかなか面白い。

 これは何回も言った話だし、何回もする話だ。初めて閉鎖病棟に入った時、四十五の、いかにもサブカルといった女性に恋をした。その女性は「あなたは官能小説を書くか、ラップをしたらいい」と言った。流石に後者はする気がないけれど、前者になれればいいなと思う。偉大なるポルノ作家になれたら。しかしポルノ産業は股間を刺激しない、文脈のない、ただの美しい裸体を想像させるだけでは成り立たない。ただの美しい裸体。それがこの古本屋の棚に求めているものだった。必要悪としてキッチュでありたいと思う。しかし、世に残る物を書けたらとも思う。

 夜中、眠れずにベランダに出て煙草を吸った。今までは煙の塊を飲み込むような感覚があったが、すうっと肺の中に入る。最初は煙草に火がついていないのかと思って何回も火をつけた。子供の頃、コーラと間違えて酒を飲んで、酔っ払うことが怖くてすぐに寝たことを思い出した。これが慣れるということか。慣れることは良し悪しに関わらずいろんな部分を不感症にさせていく。これからやっと大人になって、裸も美しく感じなくなって、キッチュな裸にインスタントな欲求を満たすようになるのだろうか。何にしろ、慣れていかなければならない。それが成長なのだろう。露茎のように始めの感覚が薄れていく。しかし、まだ二十五の半ひきこもりだ。まだまだ慣れていないことだってあるはずだ。まだ季節に敏感にいたいし、季節の節を感じる物事を全て知っている訳ではない。病院も決まっていないしどん底だ。最近まで死ぬと決めて生きていた。しかし最近はまだ生きると決めているので、その分だけ楽観視している。

ほとんどのはしがき

 退院したが、退院も入院もなにも違いあるめえと思って更新をしなかった。周りは「退院したら知らせてくれ」と言っていたので、知らせると、うち二人が「お勤めご苦労様です」と言ってきたので、苦笑にも似た微笑で画面を見つめた。まあ、身体を悪くしたわけでもない入院なんて、しかも精神病院とくれば、療養とはとてもじゃないが言えぬ。苦役だ。自分が想定している自己のレベルより下の者とつるむのも。人を下に見ることはやたらめったら言うものではない。しかし、これを俺はワナビ特有の上から目線、嫌味ったらしい自分の棚上げ精神で言い切る。言うことで多少、自分を卑下する目的もあるのだ。それに付き合わされる方はたまったもんじゃないだろうが。

 まあ、兎にも角にも日常である。人間はまず生活の基盤を安定させてから次の次元の欲望に行くものだ。マズローだか、なんかの洋画だかで習った。まずは、上等なものを、少しでも気の向くものを食べようと思った。俺の好きな太宰治は豆腐をよく食べていたらしい。豆腐、俺も好きだ。カートに突っ込む。それから味噌、もやし、味の素など、どこが上等だとも言いたくなるようなものばかりをカートに突っ込み、最後に、堕落の真似事みたいに安くて、安いなりに不味い、度数の高いチューハイを買った。

 太宰は言った。「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」煙草でも吸うか。真似事ならば積極的にやるのがいい。恥ずかしがることはない。他人に笑われようが、真似というものは楽しいものだ。太宰が吸っていたピースを買うと(愛煙したのはゴールデンバットのようだが、それは去年廃番の憂き目にあっている)、自分の部屋で吸ってみた。むせることはない。だが、うまくもない。舌の先がピリピリする。喉の奥が乾燥してイガイガする。こんなものを吸わなければ堕落もできないのか、と煙で半泣きになりながら数本吸った。不良に憧れるようなたちの人間は、みんな二十歳を超えてから不良をやり始めるようである。不良は不良をやって、落ち着こうとする。元から不良ではない人間は、二の足を踏んで、えいやっと不良になる。不良になると、不良をやめるのにも二の足を踏んで、そうして不良に居着いてしまうのだ。部屋が直ぐに臭くなったので、夕方、狭いベランダでさもしく煙草を吸っていると、アパートの駐輪場から女性が自転車を押しているのが見えた。女性もここに住んでいるんだなと思った。特に何も思うでもなかった。余計な文一つが、その文章すべてを駄作たらしめてしまう。自分はどの点が余計だったのだろうか。今月二十五になった。どこの汚点が自分を駄作にしているのだろう。ドブに足を突っ込んだあとみたいに、汚れを落とせずに衆目に汚れをあらわにしている。

 俺は何も救いを求めていない。救いになる物事を、救いだから以外の理由で欲しているだけだ。少しでも、少しでもひとかどの人物になりたい。少しでも有名になりたい。それらは救いになるだろう。しかし、救いになることを求めるのは希求だ。これは欲望である。腹も膨れてきたからこんなことを言うようになったのだろうか。これが腹を空かすことより高次なものだとはとてもじゃないが思えない。

日記

 十六時に病棟の鍵がかかる。まあ、いつもかかってて、許可制で外に出るのだけれど、その許可も取れなくなる。いつも、この鍵がかかると安心する。今日は余計な飲食や飲酒をしなかった。今日は過量服薬しなかった。いろんなことが禁止されることで一日が確定するのが何とも言えず嬉しい。明日は退院である。明日の今頃はドアの向こうから聞こえる奇声や泣き声も遠ざかり、ギターも本もある文化的な暮らしができる。しかし、怖くて仕方ない。眠気が来るまで一日は確定しない。ヘンリー・ミラーの本に『人間が望む一切のことはといえば、結局現在を忘れるということなのだ……』と書いてあった。真理である。忘れたくない現在の存在を今、俺は信じることができない(この、俺という一人称にはいつまで経っても慣れることができない)。

 明日はドラッグストアに行かないといいな。母親がかつての主治医(俺を全く正しい理由で病院から締め出してくださいました)のアドバイスを鵜呑みにして毎日連絡を取ってくる。なるべく親にラリっているところは見せたくない。俺はね、こう見えて孝行者なんですよ。俺という一人称の口語っぽさがこういう書き方にさせやがる! ともかく、俺が死のうとするのはね、人々を悲しませても、人々の手を煩わせたくないからなのだ。人々の手を借りるのが怖くて仕方ない。太宰治の『斜陽』で直治が同じようなことを言っていて驚いた。文豪とは間違い探しみたいに隠れて存在してる普遍的真理を、言葉によって言い当てる者を言うのだろう。文章家に、何を、当たり前な、という批判をしてもそれは全くの無為だ。間違い探しの例えを持ってくるなら、間違いを言い当てた人に「それはね、ずっと前から存在していましたよ」と言うようなものだ。ズレきっている。

 何の話だったか? 全般、俺は恐れていると言う話しかしていない。飽きることはない醜悪な自画像のレイヤー! キャンバスではなく、絵の具でべたべたになった両手を成果と勘違いしている。こういった無為がさかしまに評価されたりはしないだろうかね。アウトサイダーという便利な言葉は金を借りようと思うとすっと姿を消す悪友のようだ。人の手を煩わせることができないという話をした後に、こういった格好つけた比喩をすると、一体何を気の利いた装飾だと思っているかがあらわにされるようで恥ずかしい。それでは。

網目から転げ落ちて

 退院の目処が立ったので、通院先に電話をした。予約を取るためだった。

「たなかさん、どうなされました?」

「いや、退院の目処が立ったので通院の予約をしようと思ったんですけど」

「たなかさん今医療保護入院してるじゃないですかぁ……」

 話を聞いていくと、通院先の病院は任意入院しか受け付けていないため、自殺企図を繰り返して他の病院へ何回も医療保護入院をしている俺はもう診れないということだった。ようやく信頼できた医者からの説明でもなく、受付の人から聞かされた、自分のいないところの決定は他人事みたいに冷たく響いた。おそらく医者が決めたのだろう。友達が悪口言ってたことを聞くような、リアリティのない裏の顔を想像しては疲れた。

 病院を探さなければならない。自分が信頼でき、自分を信頼してくれる医者が必要だ。入院設備も必要だ。そして何よりやけにならない強さが必要だ。必要なものはいつだって手に入らないものだが。入院して安定したと思ったら、日々の方が不安定になって、簡単に死にたくなった。自分の命を自分で始末すること、それだけでいろんな人に迷惑をかける。失敗するとなると尚更だ。人と人とは支え合って生きているだとか、本質は違う。寄りかかりながら寄りかかられ、そうやって生きているのを美しく言ってるだけだ。人が死ぬ。そうすると悲しむ。それはその人に寄りかかっていたからだ。そうやってバランスを崩す。人は死ぬものだと全員がわかっていたなら。他人の命は自分の関われないところにあるということを全員がわかっていたなら。この世の中はもっと冷酷だっただろう。自己責任なんて言葉が流行って我々が生きづらくなったのと同じように。しかし、もう少しの冷酷さで我々は簡単に死ねるようになっていただろうな。

 

 カウンセリング先への診療情報提供書を好奇心で見た。意訳すると派手な自傷をする自己嫌悪家という感じだった。だから人はいやだ! より激しい自傷をせねば、より死の淵に近づかねば、安定と見なす。安定ではないのだ。一時的に可逆的な成長をしているだけなのだ。死にたい気持ちに強い瞬間があって、弱い瞬間がある。それだけなのに、さも自殺なんかを恐れるような小心者だと言いたげな書き方をしている。俺はね、どんな些細な自傷でもタナトスに則って行っている。力や知恵がほんの少し、またはかなり、足りないだけ。些細な傷をつけて死ぬ死ぬと、本気で喚いてるだけなんです。馬鹿が死のうと二階から飛び降りる時、馬鹿には自殺への覚悟が自殺既遂の人々と同じくらい、もしくはそれ以上にあったはずなのだ。自分はそういう性質を持っていると信じている。

 ここ数年、何回自殺企図と思われたか、数えられない。人の他人の死への関心や感情が、自殺志願者を遠ざけている。迷惑とみなしている。自殺は何も泥をひっかけようって話ではない。自殺はただぐずぐずになった地面として存在して、そこを通ろうと言う人を不快にするだけなのだ。医者への恨みつらみを書こうと思ったが、職業が精神科の医者というだけで、本来迷惑に感じない距離の人の自殺の近くにいなければならないというのは大変だろう。俺を遠ざけるのはわかる。わかるだけに辛い。なんの抗議もできない。反論はない。ただ自分から遠ざかる人を見ているだけ。自殺がエモーショナルなものでなかったら、人々はより暖かかったのではないかとも思える。人の感情を揺さぶらなければ自殺は嫌われていなかったのではないか。色んな仮説を立てては自分によりよい世界を空想するだけ。