反日常系

日常派

二つの掌編

エレヴェーターミュージック・フェスティバル

 青年がマイクロフォンの調子を、教えられた奇妙な手筈で確かめている。彼はエレヴェーターミュージック・フェスティバルの運営スタッフであった。

 その催しは彼の住んでいる町が一年に一度、張り切って行う祭りで、エレヴェーターミュージック(これは外で聴くBGM的な音楽の総称である)の演奏者、作曲者を呼び、その演奏を聴きながら、屋台でたこ焼きや焼きそばなんかを食うという、どこか食い違ってるような気のする、よくわからない催しだった。

 彼は昨年、たまたまこの催しを見た。たまたま出会った女の家が近く、家を飛び出してきた若い青年はそこに住み着き始めていたのだった。彼はどこへ行くでもなく家で家事をしていたし、女も休日にどこか行きたいと言うでもなかった。女は休日になると彼の肩にしなだれかかっては、時折安心したかのように眠った。

 それだけの数ヶ月が経ち、初めて女が「行きたい」と言った場所があった。エレヴェーターミュージック・フェスティバルである。彼は、半ば引きこもりと化していたので、その提案を面倒に思ったが、女の言うことを聞いてやっても良いと思い、久しぶりに外着の服に袖を通した。

 エレヴェーターミュージックはそれが無意識に流されている時と意識的に聴く時とで、違うものだろうか? 彼にはいささか疑問だった。そして、予想通り、彼の耳には違いを感じ取ることはできなかった。強弱のない、安っぽい音で奏でられるテンションコード、メロディ、控えめなドラム。もしくは(安っぽいにもかかわらず)強烈に主張してくるシンセサイザーで鳴らされる最新J-POPのアレンジ。彼はステージの上の、でっぷりとした作曲者を見た。が、特別華のあるものではなかったので、女に「たこ焼き買ってよ」と言った。

 女は彼とは違い、とても楽しんでいるようだった。どんな音楽からもかけ離れているエレヴェーターミュージックを、テクノのように踊ったり、ボサノヴァのようにうっとりしたり、民族音楽のようにトランス状態に入ったりしていた。彼は、その時初めて女に「養ってくれる」以外の要素を認めた。女は人間であったし、一つの個人であった。一つの個人として女を見ると、彼はだんだんと怖くなってきた。俺は今この女によって経済的に生かされている。この女の機嫌を損ねたら……(それは万が一にも考えられないことであったが、その可能性がゼロではないことが彼を怯えさせた)。

 その後、彼は働くでもなかった。経済的に自立していないことが怖かったが、働くのは面倒だった。しかし、彼は一度怖くなったことを無視するほど大物にはなれない。彼は色々調べて、SC-88proを買ってもらった。これは様々な用途で(今ではほとんどエレヴェーターミュージック用だが)使われる楽器だ。パソコンに繋ぎ、音を出すと、スーパーのBGMやカラオケの、あの安っぽい音が出る。

 彼は音楽を作ることで時間を潰すようになった。それは一種の機嫌取りだった。彼もそれは薄々気づいてはいた。それがなんとも情けなくて、反動で時折女にひどい態度を取るようになった。いくら仲が悪くなっても、帰ってきた女に、昼間作ったエレヴェーターミュージックを聴かせるのだけは続けた。女はいつもにこりとして、「いいと思うよ」と言う。彼は女が踊ったり、うっとりしたり、トランス状態に入ったりしないことが悲しかった。

 


 それから半年後、女と彼は別れた。女は「そもそも私たち、付き合ってなかったでしょう? 私、夏前に山梨の実家に帰ってたじゃない? あの時お見合いさせられてさ、結婚することになったんだ」彼は何も言えなかった。抗議すればするほどダサくなるのはわかっている。だから、何事もなかったかのように「そうだな。おめでとう」と言って、ポケットの中に手を突っ込んだ。ポケットの中には何もなかった。

 女が居なくなってからも、彼は女の部屋に住み続けた。名義人をちゃんと自分の名前に変え、日雇いを始め、安定するとバイトをした。

 そんな時、町に「エレヴェーターミュージック・フェスティバル スタッフ募集!」の貼り紙を見た。彼は思い出の影に引きずられるようにして、貼り紙に書かれた電話番号に電話をかけ、応募した。

 


 彼がセッティングしたマイクで、去年と同じでぶの作曲者が演奏を始めた。シンセサイザーのメロディはアンプで拡散され、マイクは音を拾った。

 彼は、女がなぜあんなにエレヴェーターミュージックに興味を示していたかが、なんとなくわかった気がした。味気ない打ち込みのドラムに身を委ねながら、ステージの袖から彼女を探した。見つかるわけもないが。

 


 彼は催しの撤収を終えて家に帰った。埃まみれのSC-88proに電源を入れ、思いつくがままにメロディを演奏した。安っぽい音色すべてが女を思い起こさせた。彼はその時初めて女が好きだったことに気づいたのだった。

 

 

厄介な女

 さみしくない。さみしくなんかないと思う。友達だってたまに会えるし、ただ、ただ時間の流れが曲線を描いてるのが大嫌いなだけ。つまらない。暇だ。だから咳止めシロップでぼんやりする。ぼんやりすると、私は時間から少し浮いて、今自分がいる場所から少し未来にいる気がする。

 友達が私の寂しさを見てないふりしている。そんなことは非難したくもない。私はそれを対処すべきだというようなかまってちゃんではない。みんながみんなぶつからないように最低限の動きをして、たまにそれが虚しくなるだけ。

 私は月の半分を実家で過ごす。その残りを障害者年金で過ごす。半野良みたいな生活をしている。実家では感情が揺れ動くこともないから、一人暮らししてるとオーバードーズばっかりになってしまう。飯なんか食いたくない。ただ消えたい……。

 リストカットをしようかなと思う。躊躇い傷をいくつかつけたあと、躊躇っていない傷をつけた。深めな傷は白い脂肪をちらつかせて、そこを毒キノコみたいな赤い血が覆って隠した。自分一人で手当をしていると、世界が部屋ごと私を置いて飛び去ったように静かだ。私は死ぬ気なんかない。だから手首の傷に満足すると応急処置をする。昔は外科にだって行ってた。外科医に「私が手を施しようがないくらい処置されてますよ」とその手腕を褒められてから、外科に行くことはやめた。それからほとんど興味と趣味で、酷い時限定だが、自分の怪我を縫合してみたりもするようになった。おそらく専門的に見たら稚拙極まりない処置だろう。でも、生きたい癖に傷つきたいという恥ずかしい考えを、医者にも見られたくなかった。

 下らなくてつまらない感傷にも飽きて、最近のブームは自我を吹き飛ばすように薬を飲むことだ。違法薬物に手を出す勇気もないから簡単に最高にはなれない。個人輸入コデインを注文する(これはちゃんと合法である)。咳止め薬などのキマる成分であるコデイン。これを飲むと心臓が止まったみたいに落ち着くことが出来る。起きているのに眠っているみたいな。自分が食べられるとは思っていない馬鹿な草食動物みたいな、そういう愚鈍とも言える安心に浸かる。アルコールも欠かせない。私は二日酔いしない体質を神に感謝しなくてはならない。ゲロを吐きやすい体質じゃなかったなら、あなたの全知全能を疑わずに済んだのですけど。

 


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 ベルが鳴るコンマ五秒前に目を覚ますといつもよくない予感と面倒くさい想像に苛まれる。そして予定調和通りに電話が鳴る。画面に見慣れた番号が表示されて、ため息とともに電話を取った。

「もしもし、悠希〜」

 キマってる時特有の空気が漏れてるみたいな話し方。ナヤが電話をかける時はいつもこの声をしていた。俺はナヤのキマってない時の声を思い出そうにも思い出せなかった。キマってる時以外に電話がかかってきたことはないし、素面だったら二人とも沈黙しきりだったろうと思う。

「君は時計が読めないのか? まだ二時だぞ。大抵の人間は寝てる時間だ」

「時計読めるよぉ。今二時十三分でしょお」

「午前二時十三分だ。午前と午後の違いはわかるだろうね?」

「あぁ……午前だったんだあ。ははは。まあ、そんなことよりさあ」

「最近君はより酷くなってるぞ。前は土日だけ電話をかけてきたが、最近はほぼ毎日じゃないか。いつもキマってる。一体どこからそんな金が出てるんだ」

「ああ、あの体売ってたおじさん? おじさんにさあ、『僕はもう結婚するからもう関わらないでくれ』ってさ、言われて、十万円貰ったんだよ〜」

 興味はないのにため息を誘う話題で、俺は相槌の代わりにため息を吐いた。被害者になる女というのは一定層いる。その中にずっと被害者である女というのもいる。そういう奴らは被害が寄ってくるのではなく、むしろ自分から被害に遭いに行ってるように見える。そういうことを指摘せずに同情のスタンスを見せ続けるというのは非常に難しい。忍耐がいる。

「君は今どこにいるの? また納屋にいるんじゃないだろうね」

 ナヤというのはナヤがかつて農家の納屋を勝手に住居にしていたことからついたあだ名なのだった。

「今〜? 今ホテルだよ。来る〜?」

 翌日、ホテルに行ってナヤとヤった。彼女がシャワーを浴びている時に財布の中身を盗み見た。三千六百円。ここから田舎への電車の運賃だ。どれだけキマってても、家に帰る金だけは用意しているのが、滑稽でもあり哀しかった。