反日常系

日常派

あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます。特筆に値するめでたいことなんて一つもないために、ただの挨拶をする機会を恥ずかしがって逃し続けて、二十日にもなってしまった。冬場は夏場より調子が悪い。薬をたくさん飲んで、酔っ払いになってばかりいる。酔っ払いは家の中ですっ転んだり、煙草の吸いさしを顔で消したり、冗談にもならないへべれけ状態を続けて、一月も下旬まで流された。

 狂人のふりをし続けていると、狂人になってしまうという意味の吉田兼好の言葉がやけに身に染みる。若いと、狂うということがやけに輝かしく見えるが、実際狂ってみると輝かしいことは何一つなく、輝きだと思っていたものは、直視し難い醜さだということに気付かされる。眉を顰めて、とてもじゃないが直視できないものが鏡に写像として映っていることに気づいた時にはもう手遅れだ。

 医学的に、狂うということに完治はありえない。寛解と言う。狂いをコントロールできるようになるということだ。一度狂ってしまえば、狂っていないに至ることはできない。そう言うことを考えていると、これから先の、順調に死ななければ長い人生を思ってほとほと嫌になる。あと何十回病院に入院するだろうか。あと何回死のうとして、永眠と比べものにならないくらいの酷い有様に陥るだろうか。三途の川というものが存在するかどうかはわからないけれど、こと自殺においては、死ぬということが川を渡るという動詞によって為されるのは、その通りだと思わずにはいられない。天使が来るなんていう受動的な物事とはとてもじゃないが思われない。死にたい時に、天使を呼べなかったら死ねないのだろうか。川の中に入るような、生と死の狭間の苦しさは何度か経験したことがある。俺にはまだ死ぬということが受動的で自動的なものだとは思われない。まだ生を戦い抜いてないからだろうか。ラウンドを戦い抜いたボクサーの片手が判定によって挙げられるような、そういった最後は俺にとっては遠すぎる。棄権して、自分からやめるという最後以外は現実味がない。正月から生き死にの話ばかりしている。まるで陰鬱な一休さんかのようだ。冥土の旅の一里塚をめでたく思うか思わないか、どちらにも賛成できずに新年を迎えてしまった。とにかく、今年もよろしくお願いします。来年は死にたくないと思わせてくれるよう今年を一緒に過ごしてくれたら嬉しいです。

もろびとひとりで

 雪が影さえ落とさないクリスマス・イヴの日に、俺は実家にいた。特に暗い話題もない。したことと言えば、眠れない夜の供に頓服すべてを服用して記憶を消した程度だ。起きた時は布団の中だった。

 クリぼっちという言葉がある。クリスマスに独りぼっちの人のことだ。まあ、なんと呼ばれようと独りは独りで、その強弱は孤独につけられた空回りな虚飾に左右される。恥じるならクリスマスは恥じるべきではない。常に独りであることを恥じる。当たり前だ。

 とりもなおさず、独りだ。寂しいという気持ちは夜に同乗してやってきて、街のネオンをささやきに変えて気持ちを唆す。流行りのウイルスは関係ない、しかし街のネオンは関係する。ラッピングに大忙しの商店は関係する。この夜に囁かれる全ての愛の言葉も関係する。交わされる身体たちも関係する。そういった塩梅。つまりは寂しく感じろ。身のつましさを恥じろ。孤独に唆されて惨めにおどけてみせろ。そういうことだ。孤独は孤独が原因の全ての失敗を好む。孤独に唆されてする行動は全て虚しい結果を生むだけなのだが。

 寂しさについて少しの考察を冷静ぶって披露したが、俺は寂しい。身悶えするその感情に対しては、どちらかというと冷静よりは狂熱の方が近い。することもないし、喋る人もいない。愛の言葉すべてを憎んだり、それを聞く冷たい耳に嫉妬したりする。本を読むしかない。ゲームをする。映画を見る。全てに疲れ、何もすることはできないが。今年は聖夜に向けた浮かれた最高潮がないため、年を越すということが信じられない。一年というのはクリスマスを迎えるための長い前戯なのではないか? すべてが聖夜のためにあり、解釈を取り違えた祝祭は一年を首を長くして待っている。宗教的意義を失ったホリデイが熱狂を意義にすり替えた。人々は熱狂の中で冷静であることに対して怯え、恋人を幻覚剤にする。幻覚もなく熱狂の中で震えているのは辛いことだ。当たり前だが、人はみな客観的には孤独だ。問題は主観的な孤独に対抗しうる幻覚を持つか否かだ。客観的に孤独だろうが、主観的に孤独でなければ少しはマシだ。俺は俺に都合のいい幻覚を待っている。それは人を個人として見ないことに違いなく、その性質が俺から人を遠ざけている。そんなことを思うには無駄に聖夜だ。

在る阿呆の一日

 今度は鬱だ。迷路を彷徨うように、同じ道にデジャヴを感じ、これでいいのかと悩んだりする。しかし、常日頃から自分が精神障害者なのか悩むことしきりなので、横たわって死にたいと思うこと、咳止め薬に助けを求めること、万々歳なのである。メンヘラに憧れてなどいない。ただ、自分がただの奇形としての不能ではなく、(能力不足という意味での)社会的な不能低脳であるということから目を背けたいだけなのだ。ただの不能は社会の中で、人それぞれといった甘言に鞭を打たれている。どうせなら奇形でありたい。人それぞれ以上の異常さで、単に生活を許されたい。世間より格下の存在として存在を許されたい。今日も死にたくてよかった。血管に針を刺し、針を通って血がどくどくと出てくる。ゴミ袋でちゃぷちゃぷとしている血が固まっていく。生きている実感などではない。生きている実感というものはなにもしていない時に立ち上がるものだ。死にたいが故に反面、自分の生活には生きている実感ばかりだ。誰かの精神の不調に関する言葉は、自分で使うには全く信用できない。なにか一つ動詞を作り出すくらいの気力が必要だ。誰かの手垢をなぞり、同じ場所に手を置くくらいできてどうする。我々奇形は奇形なりの想像力で立ち向かわなければならない。表現なら、言葉に対する生来の奇形を信じなければならない。エイトデイズウィーク、トゥモローネバーノウズ、そういったことだ。自分はRの書き方が生涯わからなかったアインシュタインのようだと思わないとやってられない。

 メンヘラというのは一つのカルチャーとして、今では立派な市民権を得ているようである。俺はそのカルチャーに属することはできないし、属そうとも思っていない。なにしろ、もう二十五だ。若者がなにに対して不満なのか、なにに対して不調なのか。今ではさっぱりわからん。俺は四捨五入すると零歳だとくだらないジョークを得る代わりに全てのイノセントを捨てた。幼さは歳を経るごとにグロテスクになっていく。舌を青くしたり、集団で薬を飲んだり、もういっぱしのカルチャーには距離を感じている。どうでもいいよ。メンヘラカルチャーとは精神薬文化だ。無意識の病理文化だ。未来を信じないヒッピーズだ。各々がダメになっていく。俺は生きたいと強く願うこともないが、死を掲げて享楽していく度胸もない。ただ、ただ疲れた。目を塞いで歩くことにはまだ度胸がついているようだ。わざわざ目を塞ぐことを楽しんじゃいないが。未来に対して目を強く瞑り、モザイクのような、万華鏡のような、そんな模様を見ることもない。楽しくなく、ただ首吊り台にまっすぐ進むしかない死刑囚のように、歩いているくせに足が止まる時の結末を知っている。一つは人に許されないことだ。許されるということに関して、医者に批判された考えに固執している。自分が人を騙せるとは思えない、自分が本当以上のことを言えるとは思えない、自分がつらくなければ人に許されるとは思えない。そうすると、自明、つらくあることが一番楽だ。落ち込むし、何もできない。そうする他ない。死にたいと思っている時だけ死を留保されている。そのうち本当に自殺する日が来て、死を決定されるのか、人に呆れられて死を決定するのか、自分には何一つわからない。ただ、俺は人間はいつか死ぬという帰納法に例外としては存在せず、自殺する人は自殺するというトートロジーに存在しているという二つのことだけを悟っている。

傷跡の話

 タトゥーを入れた。一回目だと感慨もひとしおなのだが、もう五回目なので、図書館に本を借りに行くような気軽さで入れた。左脇腹に伸びをしている猫。とても気に入っている。あとはうまくアフターケアをできるかどうかなのだ、が。

 タトゥーというものは結局傷跡なので、安定するまで気をつけなくてはならない。今日は用事にかまけていたら、タトゥーがべったり服について、それを無意識にペリッと剥がしてしまった(正しい処置は服を水をつけて優しく剥がす)。それによって剥がれたり欠けたりした部分はなく、安心なのだが、タトゥーが定着するまで気を揉む人間なので、それだけで落ち込んでぼんやりタトゥーを眺めている。

 真新しい傷跡を眺めながら、昨日自撮りに映った手首のむごたらしい傷跡のことを考えた。もう治らないケロイドたちは凹凸を光と影に分けて主張していた。どうせ治らん。タトゥーもリストカットより簡単にできればいいのにな。治療も簡単だし、消えてしまえばいいと思うものは簡単に残る。消えないままでいたいものは簡単に欠けたり消えたりする。消えないでほしい。誰かに気持ちを託すように、左脇腹の猫に祈った。傷跡を大切にするのは難しい。傷にすら良し悪しがあるのだ。大切にするのに疲れた。左手の手首から肘にかけて年輪みたいに増えていく傷は俺の影を引きずって、重さを増していくような気がする。年々増えるタトゥーは気分を軽くしてくれるのだが、一か八かどころか百も千も簡単に振り切れてしまう心が振り切れすぎて擦り切れた。全部の傷が嫌になってしまいそうだ。早くタトゥーが定着して安定したい。

 友達が「あまり見せるものじゃないよ」と俺を諌めた。まあ、そういう考え方もあるんだなとタトゥーのある両手をおずおずとテーブルの下にひっこめる。そういうことがあった。反論は特になかった。人の言うことはすべてその通りのように思える。俺の思うことはすべてそうじゃないように思える。なんだかやけにここ数日は疲れた。意義があったり、意義なんてなく楽しかったりしたが、何かが起こりすぎたようだ。今はとにかく何もしたくない。少しのやけっぱちが左脇腹の猫を惨殺しそうだ。大切にしたいのに、傷がつくくらいなら殺してしまいたい。絶対にその後は自己嫌悪で自分を消しそうになるのはわかっているのに。

 何もかもが嫌になって、すべてをやめてしまいたい。眠ったら忘れるくらいのかすり傷が、起きている最中は命さえ奪いそうだ。ポジティブな人間が死ぬこと以外かすり傷なら、俺はかすり傷すら致命傷だ。死にたい奴は死ねと言う奴ら、それらの切っ先には己がいない。のうのうと自分に死ねと言われずに生きていられる人種だ。死にたいぐらいの軽口に本気にならないでほしいで聞いてもらいたいんだが、軽口の意味として死にたい。自分がかわいくてかわいくて仕方ない。傷ついてしまうなら、すぐにぶち殺してやりたい。完治など待てない弱い心が、瘡蓋の醜さを許さない。

僕と鼠の小説の中

 セックスも人の死もない日常の中を、すいすいと泳ぐようでいて、あてもなく流れに逆らって現在地を変えない魚のように過ごしている。今日に波はない。大いに結構なことだ。セックスを語ることは非常にダサいことだ。かといってセックスがいかに生活の中にないかを語るのも痛々しい学生かのようで、これもまたダサい。言葉が軽いようなら、ダサいを優雅ではないと言い換えてもいいだろう。優雅とはそれ自体を意識せずに立派にできるものだ。その点では犬の肛門も猫の睾丸も優雅であると言える。意識せずに立派である。意識することでもう定義から外れてしまうのは、サイコパスという言葉を思い出す。世間一般の簡単にポップになってしまったその単語のイメージは、優雅に(もちろん優雅という形容が正しくないのはわかる。ただ、無意識に事を成せるという意味でこれを使っている)生臭いことをするというイメージだろう。物足りない中庸は極端を目指す。極端のイメージは実際のイデアに関係なく、単に無意識下に生まれた異物というイメージのようだ。サイコパスに憧れる若年者も現実に言葉にせずとも決していない訳ではないようだ。サイコパス自体の是非は俺の問題ではない。極端として物を言うのはとても恥ずかしいことだし、意識をしている時点で天然の極端ではないと思われるかもしれないという恐れがあるが、俺は双極性障害と、病理的には極端に振れやすいとされている。まあ、是非があるのなら非だろうし、極端に憧れる人間はこういったせせこましい自省と現実に対して盲目な楽観視の繰り返しを求めていないことはわかる。あえて言うのなら盲目であることは無意識である点で望んでいる物と近いかもしれないが。

 極端に振れることもなく、ただ一切が過ぎていく。少しの死と多くのセックスが描かれた、村上春樹風の歌を聴け』の中で、鼠の書く小説には死とセックスの描写がないと書かれている文章がある。その件の解釈で一番好きなのは、「死とセックスがないということは、つまらない小説だと遠回しに言っている」と言うものだ。ネットに流れた論文か、先輩の卒論かなんかで読んだ。つまらない人生の狭い半径を、極端な躁鬱の中で右往左往している。そのうち誰かが死に、もしくは誰かの股を開き、つまらない日常は羊をめぐる冒険になっていくかもしれない。なんとなくそれを心待ちにしている下世話な心が、その時はせめて盲目であることを望んでいる。