反日常系

日常派

シンデレラストーリーに憧れて

 何もしていない。これまでにいったい何千文字、何もしていないと言うことに使っているんだろう。今日は本当に何もできなかった。ここ数週間、本を読むことや歌うことができていたので、何もできない今日が何倍もの自己嫌悪になって襲いかかってくる。何もできないことは疲れる。氷山のクレバスに落ちて、生き延びるための手段は何もなく、つるつると滑って落ちていくことだけはわかるような、無間地獄に思える。何かできればいいのだが、そうも簡単にいかない。何もできない時は何もできない。簡単なトートロジーだが、真理だ。

 今日はおそらく物が配達される日だった。だからずーっと何もせずに待っていた。理由をつければそういうことになるが、これは些細な理由で、情動が何も起きず、ただ気分が地平を這っていただけというのが本心だ。転がる石には苔が生えぬ。良い意味も悪い意味もあるようだが、転がっている分マシである。転がることのない生活はひどく暇だ。何かをすることは少しでも転がることだ。しかも、俺のいる場所は苔も生えないカラカラに乾いた地のようだ。何もない。苔が生えないから一見時間すらもないように思える。しかし、当たり前だが時間は刻一刻と過ぎていく。自分の幼さが段々似合わないグロテスクな姿になっていく。転がった傷も、どこかに辿り着いたということもない。ただ何もせずに日が昇って沈んだ。そのくせに太陽はでぶでよろよろとしていて、季節の通りのタイムカードをゆっくりと押したり切ったりする。二十四時間。知覚していない時間を増やしたい。意識を切ったり飛ばしたりして、どこへも行かないなら行かないなりに楽に暮らしたい。生きているという、現在形が今はただただつらい。

 

 まあ、良いこともあった。小学校来の友達と連れ立って銀座のバーに行った。太宰治坂口安吾織田作之助らの無頼派から菊池寛まで、様々な文豪が来た店だという。坂口安吾菊池寛の飲んだ酒を飲み、太宰治のポーズで写真を撮った。そういったちゃちなままごと(友人よ。これは悪口ではない。むしろいい意味だと捉えてくれ)をし合って、笑いの夜を過ごした。文豪を共通言語としてままごとができることはとても高尚なように思えた。それからくだらない話をしたり、昔のことを浚ったりした。文豪に己を重ねるとロックンローラーが二十七歳を思う気持ちになるが、それでもいい気持ちだ。ままごとを続けていけたらいいなと思う。大人の真似をし続けているうちに大人になっているように、文豪の真似をして文豪になれたら楽なんだが。せめて文章は書き続けたい。誰かの文体を盗み、人の褌でも履きなれているうちに自分の物と思われるような、自分の物と錯覚できるような、そういったままごとのプロ。莫大な剽窃に一つ自分の癖を放り込み、全てが調和したらいいと思う。まずはスタイルを履き潰すことが必要だ。より多くの靴から完璧にサイズの合った靴を探す。まるでシンデレラだ。

悪魔もいない12月

 何もなく十二月を迎え、時間の経過の早さは例のウイルスの流行を参照するまでもなく、人々の体感に訴えかけている。俺はベランダでひねもす煙草を吸っているか、寒さを理由に布団にくたばるようにのたばっている。天使さえバスケットボールをしないであろう寒さに、外に出る気も起きず、自分にとっての天使や悪魔の概念をぼんやり構成したり、何一つ考えず何かを待っているといった有様。

 題名はやったことのない十八禁ゲーム、『天使のいない12月』から取った。生活には天使どころか悪魔も不在している。いわんや神をや。神の不在はアナーキズムたりうるか。どうやらマルキシズムではあるようである。いや……こんな話はやめよう。文字数を埋めるための嫌な引き伸ばしだ。天使は、自分にとって両手放しの都合の良い存在ではないようだ。無神論者に天使が来たら、自分の考えに口を挟む妖精(それもフェアリーではなくピクシーの仲間だろう)でしかない訳で、これは俺にとって天使を望まない理由の一つになっている。確固たる無神論者という訳でもないので、望む理由にも表裏一体でなっているのだが。神を信じない人に天使が派遣され、人を信仰に導く。そういう例は二三を超えて存在するようだが、悪魔が無神論者の前に現れるという例は今までに聞いたことがない。まあ、悪魔が存在することで神の存在も推察されるので当たり前といえば当たり前だが。可能なら神を信じたいが、天使は一向に現れないので神の存在、あるいは不在を未だに留保し続けている。悪魔が人の前に現れるとしたなら、それは神の不在の元に現れるのではなく、戒律の混乱、あるいは懐疑の形を持つ以外にはないだろう。俺は俗悪か、聖性か、どちらかといった極端な考えに振れるのを待っている。俗悪への信仰を持たせる悪魔も、神への信仰を持たせる天使も、どちらも好ましい。しかしやはり、天使も悪魔もいない十二月を過ごしている。中庸はどちらにも好まれない性質であるようだ。

考えられなくなること

 冬の影が朝方と夜に伸びて、暖房をつけた。本を読んでも、アニメを見ても、ギターを弾いても、鬱になって横たわっている瞬間には勝てない。昔に比べて活動的な人間になっても自己嫌悪が心臓をつつく。慣れてしまえばすべてが当たり前になって、嫌いになっていく。横たわって、壁や天井を眺めている瞬間が素晴らしく思える。血を流してゴミ箱に溜めていく元気が今の俺にはない。友達と遊ぶ予定を入れた。それだけがやけに待ち遠しく、その分だけ何もない二十四時間が引き延ばされた。

 煙草の煙と口から吐き出す冬の吐息が混じり合ってわからなくなる。疲れた顔して、その分だけ疲れてもいない体が軽くなった体重より重く感じた。煙草を吸ってばかりいる。何も考えずに煙が喉に当たるのを待っている。何も考えていない。鬱の何も考えられないのとも違って、能動的に思考を止めようと努める。酷くくたびれてしまった。何も喜ばしいことはない。上限まで分割にしたクレジットカードがコーヒーの汚れをつけて、将来を睨んでいる。灰皿に長い灰と寿命を落として、管に繋がれた祖父母のことを思い返す。煙の苦さに辟易してるのか、様々なことを苦々しく思っているのか、自分にはてんでわからないふりをした。疲れた。死にたいわけでもない。宇宙を流されるまま流れて遠い星を見ている気持ちになる。結局は何事も真に迫る物事に思えないのが問題だった。これは離人感なのか。他人事が自分の周りで起こり、他人が右から左に生活をこなしているように思える。こなしているなんて上等すぎたかもしれない。耳を塞いでしゃがみこみ、すべてが去っていくのを待っている方が近いかもしれない。

 時間をやりすごすために時間をやりすごしている時、心に宿るのはいつだって自己嫌悪だ。先延ばし以下の、先に何もないのが見える。退屈が自己嫌悪を弄ぶので、悪い方向に刺激されて落ち込む。何も考えられない方がマシ。できない方がやらないの方より良い。考える力への嫌悪がいつだってある。咳止めに手を伸ばそうとするのはいつもその思想故だ。違法に手を染めようと思ったことはない。チャットアプリで覚せい剤を使用する人と話した。誇らしく薬物の博物館みたいな顔してるクズなだけの薄らボケになるのはごめんだ。自発的に考えられなくなる能力が欲しい。ジャンキーはみな働く。ぼんやりするために意識的に労働をこなす。そこだけは羨ましい。意味もなく時間を過ごしながら、意味のあるということに恐怖を感じている。さらにはその先の意味のあることに意識的でなくなることに脅えている。来年のことを言えば鬼に笑われる。確実な人の想像の範囲内はすべて今のことだけなのに、未来を想像して嫌になる。考えないこと。それに尽きる。考えないようにするには考えられなくなる以外の手段が思いつかない。考えたくないのも愚かさだが、考えられないという愚かさではない。手持ちのものはいつも選び取りたかったものではないように思える。隣の芝は青く、隣の愚かさは輝いて見えた。

散歩思案

 去年か一昨年と同じ道を歩く。いつも通り散歩をして暮らしている。去年はスマホに気を取られて気付かなかった落葉に気付いて、気付くという行為そのものの高揚感に包まれる。木々は無鉄砲とも浅はかとも言えるスピードで葉っぱを降らしているのに、いつまで経っても葉っぱがなくならないことを不思議に思う。

 去年だって俺は何年同じことを繰り返すのだろうかと考えていた。今年も何年同じことを繰り返すのだろうかと思っている。一年間でした成長は落葉に気付くだけだろうか。しかしそれを軽視することはできない。ひっくり返った蝉の死骸が、落葉に埋もれて隠れていく。踏み潰される音さえそれが蝉とは思われず、葉っぱのくしゃくしゃとした音だと思われる。動物の死骸を見るときの安心感。死が自然と共に人間界からある程度離れていることを認識する。

 兎にも角にもこの文章は自己嫌悪に陥るクリシェにはなかなか着地しないようである。自己嫌悪に関する文章は書き慣れて、文字数が満足いくまで自分の至らぬところを書けばすぐに文字数は埋められるけれど、落葉に気付いたというそれだけの高揚感がなかなかそうはさせてはくれない。秋も終わる。気温の低下による鬱を発症しない分、入院もしていない分、例年よりいくらかマシである。少しの成長は役に立たない方面ばかりではない気がする。落伍者としての成長を続けていきたいという気持ちもある。自己嫌悪を続けることと同義だが……。少しも生産性のないものは清いと思う。社会に少しも関与しないもの。そういう人でありながら他者と関わりを持つのはかなり難しいと言える。しかし、少しも利益をもたらさない人間でありながら、人に必要とされるなら、それほど幸せなことはないだろうな。

 幼稚園児が馬を連れて先生と散歩しているのが見える。子供たちは思い思いの方向に馬を引っ張り、馬は辟易しているように見える。散歩とは無為なものだが、観察者になれることは精神上の安定をもたらす。患者たちは観察され、分析されることでさらに疲労する。俺はいくらか観察されることで危機に接近しているかのような気持ちでいすぎたかもしれない(生き物は視線を感じると、その動作の主体がどうであれ、敵意の存在を頭に入れるものだ)。

通院先がようやく決まる

 ようやく通院先が決まる。それだけでとても嬉しく、嬉しいと思うことの程度の低さ、すなわちいかに日々が低空飛行で空と地面をすり合わせてなあなあにしているかについてを考える。病状の悪さ。人から人以下の扱いを受ける半死人。人の扱いを受けるだけでその人がとても優しく、菩薩のようにさえ思われる。

 医者は若い女性だった。十時の予約を取っておきながら十時半にその医者は来た。それから数人の診察を待って、部屋に呼ばれる。人生は待ってばかりだ。医者を待ち、薬を待ち、薬を飲むのを待つ。しかし、人生が待ってばかりなら、待つことは生きることだ。それがいいか悪いかに関わらず……。ともかく、保留の中に俺はいた。人が生きるということは保留の中にいることである。神の存在を信じるなら尚更、結論のために偉大なる保留をあくせくと善行を積むことに終始する羽目になる。神を信じていなくても、人はいずれ死ぬ。神のために生きていなくても、人は無意識に終わりまで後何年かをうっすら指折り数えている。兎にも角にも、そんなことを考えて俺は医者が自分を呼ぶのを待った。

「入院設備もあるのに断るなんて酷いですよね」

 医者は自分の境遇に少なからず同情的であるようだった。前の病院のように頭ごなしに否定されないだけありがたかった。自分の病状の話になると自分は聴き慣れた歌を歌うかのようにすらすらと話し始めた。性自認の事、様々なことを忘れすぎるという事、気分の上下、今までした自傷行為、自殺企図……。悲しかったのは致死量の薬を飲んだという話を信じて貰えなかったことだ。

「デキストルメトルファンを致死量飲んでみたことがあるんですよ」

「それはどうして?」

「好奇心です。死なないだろうと思ってましたから」

「死ななかったでしょう?」

「地獄は見ましたけどね」

「ははは……」

 俺は本当に致死量の薬を飲んだ。2000mgが致死量なところを3000mg飲んだのだ。そのまま放っておかれたら死んでいただろうと思う。いや、死んでいた。救急車で運ばれ、処置をされたにも関わらず、一週間も体の自由がきかなかったのだ。医者は信じないかもしれないが、市販薬でも死のうと思えば死ねる。しかし、一番悲しいのは自分が自分をいかに蔑ろにしていたかしか自分のことを真に迫るように話すことができないことだ。自分が障害者に値するだろうか、自分は何かしら他人が定めた歪みの分類に入ることができるだろうか。わからない。しかし、他人が定めた歪みの分類に属することができるのならば、少しは自分の奇妙さが和らいだ気がして落ち着く。病気なのだから仕方ないと思われたい。自分が選択していく人生なのだが、選択肢を思いつくことができないならば、または選択を自分ではない要因で間違ってしまうならば……。そういった意味では、今回通院先が見つかったのはとても幸いだった。病院がなければ、障害者はいなくなってしまう。他者の目がなければ自分が存在できないのと同じように、自己の認識だけでは障害も存在できない。看板を立てて、今日から店を開きましたというのとは訳が違うのだ。これからこの病院に通院することになるだろう。治りたくないという意味ではなく、障害者であり続けたいと思う。障害者に甘んじて、少しでも自分の想像上の他者からの批判や揶揄に耐え抜いていきたい。