反日常系

日常派

悪魔もいない12月

 何もなく十二月を迎え、時間の経過の早さは例のウイルスの流行を参照するまでもなく、人々の体感に訴えかけている。俺はベランダでひねもす煙草を吸っているか、寒さを理由に布団にくたばるようにのたばっている。天使さえバスケットボールをしないであろう寒さに、外に出る気も起きず、自分にとっての天使や悪魔の概念をぼんやり構成したり、何一つ考えず何かを待っているといった有様。

 題名はやったことのない十八禁ゲーム、『天使のいない12月』から取った。生活には天使どころか悪魔も不在している。いわんや神をや。神の不在はアナーキズムたりうるか。どうやらマルキシズムではあるようである。いや……こんな話はやめよう。文字数を埋めるための嫌な引き伸ばしだ。天使は、自分にとって両手放しの都合の良い存在ではないようだ。無神論者に天使が来たら、自分の考えに口を挟む妖精(それもフェアリーではなくピクシーの仲間だろう)でしかない訳で、これは俺にとって天使を望まない理由の一つになっている。確固たる無神論者という訳でもないので、望む理由にも表裏一体でなっているのだが。神を信じない人に天使が派遣され、人を信仰に導く。そういう例は二三を超えて存在するようだが、悪魔が無神論者の前に現れるという例は今までに聞いたことがない。まあ、悪魔が存在することで神の存在も推察されるので当たり前といえば当たり前だが。可能なら神を信じたいが、天使は一向に現れないので神の存在、あるいは不在を未だに留保し続けている。悪魔が人の前に現れるとしたなら、それは神の不在の元に現れるのではなく、戒律の混乱、あるいは懐疑の形を持つ以外にはないだろう。俺は俗悪か、聖性か、どちらかといった極端な考えに振れるのを待っている。俗悪への信仰を持たせる悪魔も、神への信仰を持たせる天使も、どちらも好ましい。しかしやはり、天使も悪魔もいない十二月を過ごしている。中庸はどちらにも好まれない性質であるようだ。