反日常系

日常派

ほとんどのはしがき

 退院したが、退院も入院もなにも違いあるめえと思って更新をしなかった。周りは「退院したら知らせてくれ」と言っていたので、知らせると、うち二人が「お勤めご苦労様です」と言ってきたので、苦笑にも似た微笑で画面を見つめた。まあ、身体を悪くしたわけでもない入院なんて、しかも精神病院とくれば、療養とはとてもじゃないが言えぬ。苦役だ。自分が想定している自己のレベルより下の者とつるむのも。人を下に見ることはやたらめったら言うものではない。しかし、これを俺はワナビ特有の上から目線、嫌味ったらしい自分の棚上げ精神で言い切る。言うことで多少、自分を卑下する目的もあるのだ。それに付き合わされる方はたまったもんじゃないだろうが。

 まあ、兎にも角にも日常である。人間はまず生活の基盤を安定させてから次の次元の欲望に行くものだ。マズローだか、なんかの洋画だかで習った。まずは、上等なものを、少しでも気の向くものを食べようと思った。俺の好きな太宰治は豆腐をよく食べていたらしい。豆腐、俺も好きだ。カートに突っ込む。それから味噌、もやし、味の素など、どこが上等だとも言いたくなるようなものばかりをカートに突っ込み、最後に、堕落の真似事みたいに安くて、安いなりに不味い、度数の高いチューハイを買った。

 太宰は言った。「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」煙草でも吸うか。真似事ならば積極的にやるのがいい。恥ずかしがることはない。他人に笑われようが、真似というものは楽しいものだ。太宰が吸っていたピースを買うと(愛煙したのはゴールデンバットのようだが、それは去年廃番の憂き目にあっている)、自分の部屋で吸ってみた。むせることはない。だが、うまくもない。舌の先がピリピリする。喉の奥が乾燥してイガイガする。こんなものを吸わなければ堕落もできないのか、と煙で半泣きになりながら数本吸った。不良に憧れるようなたちの人間は、みんな二十歳を超えてから不良をやり始めるようである。不良は不良をやって、落ち着こうとする。元から不良ではない人間は、二の足を踏んで、えいやっと不良になる。不良になると、不良をやめるのにも二の足を踏んで、そうして不良に居着いてしまうのだ。部屋が直ぐに臭くなったので、夕方、狭いベランダでさもしく煙草を吸っていると、アパートの駐輪場から女性が自転車を押しているのが見えた。女性もここに住んでいるんだなと思った。特に何も思うでもなかった。余計な文一つが、その文章すべてを駄作たらしめてしまう。自分はどの点が余計だったのだろうか。今月二十五になった。どこの汚点が自分を駄作にしているのだろう。ドブに足を突っ込んだあとみたいに、汚れを落とせずに衆目に汚れをあらわにしている。

 俺は何も救いを求めていない。救いになる物事を、救いだから以外の理由で欲しているだけだ。少しでも、少しでもひとかどの人物になりたい。少しでも有名になりたい。それらは救いになるだろう。しかし、救いになることを求めるのは希求だ。これは欲望である。腹も膨れてきたからこんなことを言うようになったのだろうか。これが腹を空かすことより高次なものだとはとてもじゃないが思えない。