反日常系

日常派

日記

 夏が来ただとか七月になっただとか、その癖気温が思ったよりもやさしくて救われたような気持ちになるだとか、些事の中で回遊する魚のように、簡単に頭の中に浮かぶ感想以下の意識の流れに、そうわかっていながら抗いようもなく流されている。感想以下の箇条書きじみた言葉を羅列してでも文章を書こうと思うのにさしたる理由は必要なく、ただ、自分の癖を発見してからそれをやめることもできず癖が誇張されていくように、ただこうして文章を書いている。ニュースは僕らに何か一言でも言葉を発しなければならないというような気持ちを与え、僕らはそれに唆されて当事者になったような錯覚に陥ってしまう。歴史は今まで作られて、今それを読み解いている。そして今も作られて、未来にそれを読み解かれる。それらは当たり前のことだが、一挙手一投足が足元で地層に人の住んでいた痕跡を残すことを想像することは、些かパラノイアックと言わざるを得ない。未来に僕らは何も残すことが出来ないと楽観的に考える方が健康で、未来人の機嫌を取るのはどだい不可能な話だろう。

 まあ、いい。良くはなくとも、何事もその程度の感想である。僕の何かにつけて憂鬱に振り切る脳味噌は、ある程度考え事をすると、その内容の善し悪しに関わらず、全てを憂鬱とラベリングしてほっぽいてしまう。そのため、自己を守るためになるべく考えすぎないように心がけている。憂鬱が文章を授けて、脳が少し重くなったような感覚に陥ることも、それはそれで結構な事だけれども、文章を吐き出して脳が軽くなる訳でもない。ただ憂鬱は生み出さないことに限るのだ。だが、完全にそうできるほど僕は器用ではない。人間には考え方の癖があって、それを自覚することでその癖を操っていけるようになるというのがカウンセラーの考え方のようだけれども、人間という大きな主語に言い切りの型など通用するのだろうか。僕の癖は僕にとってはもう如何ともし難いものの様に思えてならない。どのような癖があるのかはもう理解している。カウンセラーが占い師のように得意気に言ったことは、もう既に知っている事だった。だが、知っているということがあまねく助けになるという訳でもない。癖を知ってもまたやってしまうだろう。癖を知ったことによって今までは何も考えていなかった所作に嫌悪感を持つことも往々にしてある。

 何にせよ、西洋医学批判である。漢方も信用できない。生活の中のクリシェに感情の中のクリシェを付け足してぼうっとしている。文章もそうだろう。何か喋らなければならないという、強迫観念にも似た世情について、僕はあえて特筆しない。ただ自分の中にだけ通じる繰り返しや決まり文句の中に定住している。それは阿呆にも似て、そしてその実呆けているのだろうけれど、呆けることに良さがないとは言えまい。

病院に行った日の日記

 病院の待合室で、あまりにも小さい呼び出しの声に苛立ちながら、さしてすることもないためにこの文章を書いている。病人と老人は声が大きく、老人が声を大きくしているのはお互いの耳が遠いからだと直ぐに理解出来るものの、病人(のほとんど)は何故声だけで病人だと第六感に訴えかけるのだろうか。

 病院に行くまでの道には掠れた看板の数々があり、看板につられて店内の様子を伺うと、カーテンや机すらない伽藍とした空間となっていて、その店が既に閉まっていることを察する。「珈」という字が看板に恨みのように残っている──他の文字は殆ど風や雨に削り取られてしまったのだろう。読めなくなっている──ことから想像するに、生前は喫茶店だったのだろう。つわものどもが夢の跡と、正しく物事を言い表しているかも査定せずに言葉が連想された。

 連想は常にそれが正しい正しくないを問わずに浮かび上がる。深層心理という名の、言い当てられるか、否定しても言い当てたとされるくだらないものの為に四、五十分も待合室で老人に囲まれている。この経験が寓話的に何かを示唆する日が来るだろうと、またしても適当な連想を続ける。ロールシャッハテストの結果を聞きに来たのだが、僕の西洋医学への信仰は真面目な信徒のように常に盲信という訳には行かず、メンタルの調子やまたはその時折の機嫌などによって簡単に上下してしまう。

 今の僕にとって、深層心理というものは、目的地へ行くのに踏み出した足は右足か左足かというような些事であるように感じられてしまう。どこへ行くかとか、バスか電車かといった問いの方が実践的であろう。原理や原始などは全く実践的ではないのである。例えば、落ち込みやすいという思考の癖を知らされたからと言って、それはただの非情な真理(胡散臭い響きだが、そもそもこれは胡散臭いのである)であり、簡単に絶望に堕とす手段のようにしか思えない。

 医者に呼ばれ、診察室に向かう。この医者に対して思うのは、濃い腕の毛を手巻き寿司のように腕時計で包んでいるなという程度で、好感も嫌悪も持つことを許されぬような、無味無臭の人間であり、この人物が誰かと親しくしているという想像が困難な程、個人として人間を捉えることが出来ない。医者の学校があるなら(あるのだが、その内容を好き勝手に空想することが許されるのなら)、診察1Aの中の例文でしかないような空虚な会話をした。さして変わっていないことを好転と勝手に捉えられる。特筆するべきこともなく、夜中起きると数回の通院に渡って訴えているのに薬の量は死人の心電図のような水平線を辿る。

 これからカウンセリングを受ける。あまりの馬鹿馬鹿しさに憤慨することを一つの楽しみとして期待しているが、馬鹿馬鹿しさにもしらける馬鹿馬鹿しさがある。それはつまらないコメディにも似て、僕を冷笑家に変えてしまう。

 

追伸

 カウンセリングが終わった。様々な客観的観測を述べられて、凡そそれは当たっていると思ったが、治療の方針に関しては多分に希望的観測が入っていると言わずにはいられなかった。正誤で言うと正の様々な客観的観測は僕が鏡の概念を知らない動物だったら驚いていただろうとも思う。僕は鏡の概念を知っているが故に、客観視ができる故に、紙に書かれた検査結果にデジャヴの様なものを感じ、醒めざるを得なかった。

日記

 摂取しすぎて毒にも薬にもならない音楽を、何を言っているのかを査収することもなく聴いている。近頃は何をする気力もなく、それを伝えると医師は我が意を得たりと言いたげな表情で「夏バテですよ」とでも宣うだろう。少し前なら梅雨、更に前なら五月病、もっと前なら冬を簡単に理由として宛てがわれる僕の憂鬱が、少しでも病的であってほしいと祈るのは僕だけのようで、医師の診察などは言葉遊びを目的としているとしか思えない。そもそもの話をすれば、常に憂鬱の根源を季節などに求めるのはメランコリックなのであって、メランコリーは元々──今で言うところのメンヘラ同様ポップカルチャーに薄められてしまっているが(文学が新しい言葉を持ち込んだのだが、今ではそうでないことが悲しいことに、昔は文学さえポップカルチャーだったのだ)──病気である。果たして僕が季節性の憂鬱を抱えているのか、医師が患者の総体からメランコリーの理由を推察しているに過ぎないのか、単に医師がメランコリックなのか、僕には悪意抜きで考えることはてんで適わない。

 汗をかき、額の汗が僕に眉毛がないことを理由に目に流れ込んでしまう。ティッシュで額と目を拭いていると、あまりにも泣いているような格好で、ふと演技が真に感じられるような感覚に襲われ泣いてしまいたくなる。特段、悲しいことはないのに悲しいふりをしてばかりいる。特に悲しいことはないのだ。ただ、無気力に暮らしている。服を着替えるだとか風呂に入ることすら意欲が湧かず、外に出る必要があるとようやく風呂に入る。湯船に浸かっていると、このまま溺れたら映画か絵画か、何かしら画になるだろうと、薄ぼんやりとした希死念慮と何者かにカメラを回されているような自意識過剰の相まった、濁った水としか言えない味を感じる。それもそのはず、僕は気づかないうちに──とは言い過ぎだろうけれど。気づかない風を装って。より画になるように(まるで演奏記号のような注釈でほとほと嫌になるな)──椅子に浅く腰かけるようにして、口を湯船に突っ込んでいた。

 まあ、人間には鼻もあるし、湯船で溺れるのはあまりにも汚らしいだろうという意識も当然あるので、無事僕は風呂から上がり、体を拭き、つまった排水溝が水をユニットバスのトイレ側に吐き出してその床をびしょびしょにするのを眺めることが出来た。垢や髪の毛も含んで底で逆流する水に踝を浸してユニットバスを後にした。

 何かしら書くことがそれ自体の意味となっているような、本末転倒の文章を書いたが、書いたことに意味があると信じ、何ならいつか無意味に意味のサーチライトが当てられることを祈って公開する。ハイパーグラフィアを装う。書く事が祈りなのか、書く事で既に救われているのか、後者であることを無邪気に信じている。

糞尿にて思案したること

 酒をジュースのように飲み、日々に打つ句読点のように珈琲を飲み、行間のように煙草を喫んでいる。酩酊の定義が間違っているのか、身体か脳のどちらかが酒に強すぎる(弱すぎる)のか──そしてその推測のどちらも当てはまっているのだろう──によって酩酊が口の酒臭さと共に鼻っつらに眼前として現れることはない。その癖、身体か脳かどちらかは醒めたアルコールにやられているようで、先日、眠っているうちに糞を漏らした。夏至を過ぎ、徐々に気温を上げた六月末の汗と垢と糞に塗れたであろう僕の下着は流石に汚らしく思え、ゴミ袋に捨てた。

 まあ、糞を漏らしたと言っても、そこにいささかの含羞がないとは言えないが、含羞に塗れた言葉や出来事を排除しては何一つとして言えるものはないのだ。躁鬱の調子も落ち着いてきて、深夜、覚えてない夢に幻覚のような妄想のようなものの残り香を嗅いで、夢の中の谷底に身を投げたいと思うこと以外で辛いこともそんなにはない。アルコールを飲むとよく眠れるが、死体がその鼓動を止め、一時的に弛緩し、身体を自然に明け渡すかのように硬直するのに任せること、そしてその間に糞やら小便を漏らすことを考えるとアルコールは一時的にその意識を死に貸すことではなかろうかと思える。

 僕は死に貸して、その癖ろくな利息もなしに翌朝ポストに投函される意識を、また戻ってきてしまった、厄介な子供とでも言いたい扱いでまた酒に貸し出してしまう。いっその事意識が延滞されるか、または売っぱらってしまえるかを願うのだが、願うとは意識の領分である。なんだか良い気持ちだと思っていれば何一つ願うことはないのである。こんなことを言っているが(言っているので)、私はろくな酩酊も手に出来ないでいる。睡眠薬と安定剤を多分に飲むと今度は尿が出ない。最近、酩酊を呼ぶとされる薬全てで尿閉塞の症状が出る。何回も薬によって尿閉塞を呼ぶことを繰り返していると、いつか病院送りになるくらい尿が出なくなって困ることを、僕は既に一回経験して知っている。それに、酩酊も色の掠れた印刷みたいに徐々に褪せていくのだ。現実にモヤがかかる程度の酩酊に、何一つ焦がれることはないのだが、初めて酩酊に至れた時の感覚は、記憶の中が故に(逆に)鮮明に──鮮明とされているのは後に着色が行われたが故だろう。そんな素晴らしいものでもないのだ──脳裏に映り、見飽きた映画のワンシーンの為に再生ボタンを押すかのように、プチプチと音を立てて錠剤を出してしまうだろうなと思う。

 糞尿のことばかり書いた。糞尿のことはくだらないが、くだらないが故に重大だ。貴方も糞を漏らすか、尿が出ないかで騒いでみるとよろしい。何故僕がこんな文章を、感傷はないにしてもある程度の特筆に値する感情を持って書いたかがわかるだろう。くだらないこととは前提になっていることである。前提が覆された時に僕達は呆然とするしかないのだ。

日記というより意識の説明

 六月になった。定期的にやるこの報道じみた──それにしては言葉を忘れたみたいな──書き出しをやめようと思うのだが、時間が経ったことくらいしか興味を引くものがない。ただ時間が経つのに任せる。その時折の感情も頓服薬の眠気と綯い交ぜにして、ぼんやりしているうちに過去のものになる。結局のところ、予約された未来を過去にしていくだけのことしかしていない。学生だって、期限がついているだけでそれと同じなのに、何故僕らはユースに惹かれるのだろうね。学生の頃、汗臭い体操服をバッグに詰めたり、遠くから吹奏楽部がスケール練習しているのが聞こえたりするのを、きらきらとした高揚感に似た感覚を付随させずに思い出すことができないのは本当に何故なのだろう。退屈と若さ故の悲劇性を往復していた当時は「こんなものが懐かしくなるはずがないし、もしそう思うなら歳をとって若者を理解できなくなっただけだ」と思っていた。過去を懐かしむ度にその当時の自分が恨めしそうにこっちを睨んでいる。もう、高校生の頃から十年程経つのだし、当時は大人の一人だと思っていた自分も、今では頭を撫でてやりたいほどガキに思える。それにも関わらず、自分は何を獲得できたか。言葉を詰まらせざるを得ない。

 ただ前からやってきて後ろへ消えていくだけの日々から期限がなくなるだけで、どうしてこうも寂しくなるのだろう。

 

 辛くなっては頓服薬を用量を守って飲む。眠気がやってきて、それでも眠れないと察しながら横になる。目を閉じて、微睡みほどではない何かを体感しながら、何かしでかしてしまいそうな気持ちを何もできないに変える。陽が昇りまた傾くのをカーテン越しに感じ取る。また時間が過ぎていく。時間。好き勝手に時間を自分含め止められたらいいのにと思う。存在、存在に付随する意識。意識は流れだから、時間を必要とする。意識の流れを止めてぼんやりしていたい。低き低きへ、高き高きへと騙し絵の様に無限に周回する意識のために、どうしてこんな無気力を疲労に変えているのだろう。存在するだけで、意識が流れるだけで、さして負の感情がある訳でもないのに疲れてしまう。死にたいとは思わないが、一瞬だけこの世界から除外されて休みたいとは思う。夕方のチャイムが鳴った。生きようとも強くは思わないが、生きようと強く思えるようになったらいい。それが最善なのはわかっている。子供たちが犬の散歩をしている老人を駆け足で追い抜いていったか、すれ違ったのを路地からの音で感じ取る。誰かが都会でバッグを持って歩き、日焼け止めが日差しを弱めながら日差しはそれでも確実に肌を焼いているのだろう。そういった営みの中にいつか戻れるだろうか、またはそう願わずに済むくらい除外されきることが可能だろうか。最善な方が僕の意識を、その流れを感じさせないくらい良方につれて行ってほしい。